寧夏→

 朝8時前にはホテルを出て、街へとバイタクで行くことにした。バイタクといっても、おばちゃんがミニバイクを少し改造して一人をやっと乗せることができる程度のもので、スピードも小走り位だった。
 固原は明清代の小さな県城に収まるくらいの街で、西域への玄関口として栄えた面影はない。僕はまず固原博物館に行くことにした。隋唐時代の固原にあったソグド人集落のボス、史氏一族の墓が郊外から発掘され、出土物がここに収められているのだ。
 博物館の開館時間は8時のはずなのだが、まだ閉まっていた。予期せぬ客の到来に、服務員の少女たちは嫌な顔ひとつせずに鍵を開けてくれた。中国にあってはこんなことでも嬉しくなる。
 博物館の収蔵品は、どこかに出品しているからか空のケースが多かったり、貴重ということでもっと大きな博物館に持っていったりしていたので、僕の期待に十分に応えてくれるものではなかった。特に墓門の壁画がレプリカであったり、肝心な墓誌は拓本しか置いてなかったりしたのだ。その中で、最も見ごたえがあったのは隋代にこの地方の総督であった李賢の墓からの出土品(やはり西安と比べると垢抜けていない)と、ペルシアから招来された銀製のつぼであろう。

 僕はすぐ寧夏省の省都、銀川に行くことにした。僕の旅は依然移動モードに入っていて、固原の様な小さな街でまったりする心境ではなかったのだ。ここから銀川まで6時間。バス発着所(といってもバスが溜まってるだけ)に行くと、折りしもバスが出るところだった。しかも比較的良さそうな状態だった。
 バスのエンジンは何とか頑張っていた。ここまでは夜行で来たので、ゆっくりと南部寧夏の土地を見ることができた。土地はやはり関中よりは痩せているようだ。郊外ではヤオトンがまだ現役として活躍している。普通の家も土を固めたものが目に付く。丘陵地帯が多いが、どこも石炭を掘ったのだろうか、穴だらけだ。畑の作物は玉蜀黍、高粱で、これは華北通じて同じようだ。街をでて1時間も行くと、車窓にはオルドスが広がる。時折り羊を放牧させていたりする。通り過ぎるどの集落にもモスクがある。マーケットも賑わっている。また、この地方は最近工業地としても注目されているらしく、でかい工場も目立つ。
 それにしても、このバスののろさときたら。この先中国ではバスのボロさに苦しむことになるのだが、これは果てしない忍耐との戦いである。エンストしまくり、動けばどんどん他の車に追い抜かれていく。こんなんで日暮れまでに銀川に着くのだろうか。何も無い荒野の真っ只中で完全に故障してしまったバスの周りを、途方にくれた顔をした人たちが囲んでいるのを見たときには、いよいよ不安になる。

 かなり気を揉んだ挙句、銀川には夕方頃に着いた。ガイドブックの地図を頼りに、銀川飯店にチェックインした。結構大きなホテルだが、繁盛しているとは言えなさそうな、落魄した印象を与える。止まったままの国際時計がさらに痛々しい。
 街を歩いてみて驚いた。西安より遥かに都会だった。服装のセンスも良いし、鐘楼を飾り立てるネオンも眩しい。バーやディスコも立派なものだ。ここは観光という過去にのみ頼るわけでなく、工業という新しい産業の上に成立しているからこその雰囲気なのだろう。
 ホテルの近くで羊肉の鍋をつついた。だいぶ北に来たので、夜ともなれば結構冷え込むのだ。そして耐え切れず、西夏ビール(2元!)をのむ。アルコールを口にするのは久々だったので、ほろ酔いで宿に帰ることができた。しかし、またもやホットシャワーは出なかった…

 次の日は朝のうちから動いた。まず、通勤者に混じって市バスに乗り、駅へ行った。翌26日朝発の嘉峪関までの列車の切符を買う。さすがに切符の買い方にも慣れてきて、スムーズになった。コツはやはり、堂々と金と言葉、メモを投げつけることだ。日本ではとてもできないが、こちらではこれ位でちょうど良いのだ。

 市内を一望できる承天寺塔に登った。するとどうだろう。整然と四角く区切られた街角が眼下に広がっていた。ここは明代から続く県城の筈だが、現存する鐘楼などはミニチュアのようで、街全体から浮き上がって見える。一度さら地にして一から作り直したようだ。街の中心から数キロ離れた海宝塔にいく途中には、こざっぱりしたアパート群もあった。古代の西北辺境の要衝は、新興工業都市へと変貌していた。
 街には、沐浴場が目に付く。さすが回族自治区だけのことはある。羊鍋屋が多いのもこのせいだろう。その一方でここの地ビールが結果として、僕が中国で巡った街の中で一番安かったというのはおかしな感じではあるが。また、上海・太原・西安とあった、ピンクの照明と化粧の濃いお姉さんがたむろして怪しげな空気を醸し出していた「理髪店」も無い。
 二日目の夜も羊鍋とビールで温まり、いい気分で宿に帰った。テレビをつけると、APECが閉幕するということで行われた度派手なセレモニーを中継していた。こんなことはこの内陸の地方都市にいれば、全く現実感の無いことのように思える。