ハミ→


 敦煌とハミの間に横たわるゴビは、莫賀延磧と呼ばれて旅人から屈指の難所として恐れられていた。しかし、今の時代ではバスにさえ乗れば済むことだ。朝の9時頃の出発ということで、バスの床には剥き出しのスチームが装備されていて、有難い。

 7時間後には、申し訳ないくらいスムーズにハミに到着した。ハミは思ったより都会だった。敦煌以上だ。道の整備度も比べ物にならない。西部大開発の賜物だろう。また、漢人の多さにも驚いた。敦煌より若干、トルコ系の人々が多いかな、という位だ。
商業賓館というこざっぱりしたホテルに宿を決めた。もちろん多人房(ドミトリー)。部屋の客が僕一人だけ、というのが決め手だった。
 夕方、腹具合もそんなに悪くなかったので、街外れまで観光がてら散歩してみた。確かに市街地は漢字が溢れ、漢人の多さばかりが目に付いたが、少し外れるとウイグル人ばかりだ。寧夏以来あまり見なかった屋根の色鮮やかなモスクも目に付く。フェルト、帽子、鉄器、機械、様々な店が軒を連ねたその町並みは、今まで目にしてきた漢人のオアシス農村とも雰囲気は全く異なる。
通りかかった結婚式の行列も独特だった。先頭に派手に飾り立てられた新郎新婦の車が走り、続いてトラック。その荷台ではウイグルの民族楽器を用いての演奏が行われ、街中を駆け巡るのだ。
 夕食を取るために訪れた屋台街も、ウイグル風チャーハン、シシカバブなどなど、敦煌とは趣きを違えていた。どれも垂涎ものだ。ただ、病み上がりの僕には少々重かった。
 夜中、寝てると、漢人の客が二人入ってきた。そのこと自体は構わない。ところがこいつらときたら、電気つけるわ、大声でくっちゃべるわ、テレビをつけるわで、挙句の果てには電気もテレビもつけたまま、大いびきで寝てしまったのだ。未だに思い出しても腹が立つ。だから、翌朝トルファンに出発するため、7時頃バスターミナルに行くことになっていたのだが、その際には昨晩のお返しということで、辺り憚らず大きな音を立てて用意してやった。

 ハミのバスターミナルでちょっとした驚きがあった。何と、チケットがバーコード処理されていたのだ。いったいウイグル自治区とはどんな場所なのだろう。
 トルファンへ向かう道も、今までになくきれいだった。料金所も日本のそれと比較しても遜色は無い。バスも快適に飛ばす。歩き方には9〜13時間とあったのに、実際は6時間余りでトルファンに着いた。西部大開発の恩恵にありついたという所だろう。西部大開発はまず道路、鉄道ありきで、そこから漢人を大量に送り込んで街にビルを建て、「中国」にしていくという方式というのがよく分かる。けれどもそれも所詮は“線”と“点”でしかない。“面”ではないのだ。どこまでこの政策は成功するのだろうか。
 トルファンに着いてすぐツアーの客引きに捕まった。今はオフシーズンなので値段は高くないのだろうが、その分しつこい。結局一日目の宿に決めた吐魯番飯店までついてきた。この辺はホテルもこういう旅行会社と結託しているので、誰も止めようとしない。そのまま押し切られる形で、翌日のタクシーのチャーターをOKしてしまった。一人でなら300元でもまあ高くはないだろう。
 トルファンは小さいけれども豊かなオアシス都市で、葡萄で有名な場所である。確かに土で固めて作られた家の上には葡萄を乾かすためのレンガ造りの小屋のようなものが乗っている。市街地の中心を少し外れると、そこは道路も舗装されておらず、小川の側では老人たちが干し葡萄を作っている。
 そこを抜けていくと、スレイマンタワー(蘇公塔)に出る。土で固められた表面に彫られた細かな幾何学的文様が美しい。建物内部の木の柱もシンプルで独特の佇まいを見せる。中国内地のモスクは西安の清真大寺に代表される様に中国様式に屋根の色に独特な風合いを見せる。一方でウイグル自治区でもカシュガルなどに行けば、イスラム独特のカラフルな建物となる。そして、ここトルファンは土のモスクが目立つ。これはトルファン独特のものなのだろうか。

 翌日、8時過ぎに向かえのタクシーに乗り、まずホテルをバスターミナルの横手にあって、しかも1ベッド20元と格安の交通賓館に移った。そして、トルファンツアーへ。運転手は寡黙な青年で、以前日本人観光客から貰ったというB'zのテープを延々とかけ続ける以外は申し分なかった。
 まずは火焔山。孫悟空羅刹女の戦いの舞台として有名な場所だ。山一面に、上から下に入る筋は言われてみれば炎に見えないこともない。
次いで火焔山の裏手にあるベゼクリク千仏洞に行った。10世紀、モンゴル高原から西遷したウイグル族の一派はここトルファンに高昌ウイグル国を建国し、遊牧民から定住農耕民へ、マニ教徒から仏教徒へと変貌していった。そしてその王族が寄進者となって開鑿したのがこのベゼクリクなのだ。

 遥かかなたに天山を望みながらトルファン特有の土モスクが点在する山間を抜けていくと、そこは川が流れていて谷間には農家が見える。そしてその切り立った崖のところにベゼクリクはある。オフシーズンなので他の人の姿は見えない。ただ、補修作業に携わる職人が窟内で黙々と筆を走らせ、また近所に住んでいると思しき老人が弦楽器を奏でていた。静寂の渓谷に響き渡るどこか物悲しい弦の音が、旅の郷愁を誘う。
 そしてアスターナ古墓群へ。6世紀以前のトルファン住民の墓地だ。わずかに3つの墓しか公開されておらず、また出土品は殆どウルムチに移されているので、あまり目ぼしいものはない。僕は並ばずに回れたが、シーズン中だと炎天下の中、何時間も待たされるという。
 次いで高昌故城へ行った。唐に滅ぼされるまでトルファンを押さえていた漢人植民国、高昌国の中枢だった場所だ。もちろん、今はただの廃墟でしかない。住民ではなく、観光客から少しでも金を取ろうとする。ここは結構広く、徒歩で見て回るのは少しきつい。そこでウイグル人が御者を勤めるロバ車というのがある。入り口から奥まで乗せてくれるのだが、彼らにしてもオフシーズンは暇らしく、勧誘はしつこく、また外国人ともなれば相当ふっかけてくる。僕の場合も言い値は20元だったのだが、少し交渉しただけで5元になった。僕はそれで結構満足して乗ったのだが、これがまずい。この運転手、客の回転を早くしたいらしく、かなりの勢いでロバを走らせ、挙句の果てには見学時間を10分にしろとか言い出す始末だった。そういうこともあって、遺跡自体も僕の目にはそれほど魅力的なものとして映らない。
 最後の目的地、交河故城は高昌国に先立つ車師国の中心地だった所で、文字通り二本の河に挟まれた軍艦島を彫って作られた城郭都市である。何か近未来の惑星の都市の廃墟のといった趣きで、街路はまるで迷路のようだ。ここをはるか昔にさまざまな人種の人々が往来していたと言われても、実感できない。空の青さと土の廃墟はよく似合う。
 5時までにはバスターミナルに戻ることができた。これで今回の「見なければいけない場所」は全て見た。ようやく肩の荷を下ろした気分だった。餃子とご飯で乾杯して、一つの区切りをつけることにした。

 明け方、また下痢の波が押し寄せてきた。しばらく小康状態を保っていたようだが、やはりまだまだ僕を解放してくれそうもないらしい。実は隣のベッドには敦煌で同部屋だったカナダ人女性がまたもや居たのだが、今回もお茶をごちそうしてくれようとした。僕は今回もやっぱり断ったのだが、それ以前の問題だったようだ。
 郵便局で葉書を投函してから、11時のバスでウルムチに行くことにした。トルファンへは日帰りで来るくらいの距離なので、今回の旅の中では一番楽な移動だ。
トルファンウルムチは新疆でも最もドル箱の地区でもあるので、ここも道路の充実度は素晴らしい。うねうねした旧道を横目に、砂漠の中を、山の中を、川をまっさらな道路が真っ直ぐ伸びている。
 ウルムチには2時すぎに到着した。昼間だというのにかなり冷え込む。街のかなり南の方で降ろされたらしい。バックパックはコートのおかげで重さは半端ではない。けれども結局は中心まで歩くことにした。2キロばかりで中央バザール、二僑市場に付く筈だ。そこに行けば安宿ぐらいはあるだろう。
案の定、市場の横に頭漫ホテルというボロいホテルがあった。出入りする客層からみて、地方からこの市場にやってきたウイグル人のためのホテルのようだ。部屋を見せてもらうと、かなりのひどさだったが、ツインの部屋を1ベッド分の料金20元でよいというので、ここにした。
 僕は、近年西部大開発という追い風を受けて急速に発展する砂漠都市、ウルムチには長居するつもりはなく、次の目的地への中継点と考えていた。そこでまずはダメ元でイーニン行きのバスを探してみることにした。ここは新疆北部の中心であり、カザフスタンへの玄関口でもあり、また天山をクチャまで縦断する山越えルートの出発点でもあるのだ。カザフスタンのビザの無い僕にとっては、前者のルートは現実的ではなかったが、天山越えは荒川正晴先生の一押しだったので、それにトライしてみようと思ったのだ。
 1時間ほど市内を歩いて、北部方面へのバスターミナルに着いた。早速チケット売り場で、イーニン行きのバスはあるのかと訊いてみた。けれども、僕の淡い期待は売り子の漢人女性によって、一瞬で打ち砕かれた。何と、北部のイリ地区自体が外国人立ち入り禁止になっているという。もちろん、これはある程度予測できたことなのだが、僕がそれでも期待していたのには訳があった。トルファンで一人のアメリカ人と相部屋になったのだが、彼は少し前にカザフスタンからバスでイリに入ったと言っていたからだ。
 こうなった以上、仕方ない。僕は街の反対側にある南部方面へのバスターミナルへ行くことにした。天山越えはあきらめて、一気に中国最西端のカシュガルへ行くことにしたのだ。ウルムチからカシュガルまでは1日半のバスの旅。相当ハードなものになるだろうし、このように自分で勢いを付けて行かないと、なかなかきつい。
 実は、先輩の張さんからウルムチの考古研究所の知り合いを紹介されていたのだが、もうあきらめることにした。その理由の一つに、ウルムチの博物館は今改修工事中で、展示物を見ることができないという、ガイドブックの記述があって、居てもしかたないと思ったからだ。けれどもこれは大きな間違いだった。後日、ラサで出会った日本人が、この博物館の展示物は実は別館で見学でき、しかも暇を持て余した日本語ガイドが無料でついてくれたと教えてくれた。さらに驚くべきことに、改修するのはよいが、途中で資金が足りなくなり、一旅行者であるその日本人にまで、貴重な文物を売りつけようとしたという。
 それはともかく、結局僕はある意味、最大の見物を逃したのだ。(後日談だが、結局この博物館の主要文物は2002年秋の東京国立博物館の「シルクロード展」でほとんど見ることができた)もっとも、その裏にはいきなり紙に名前と電話番号だけを書いて、さあ向こうに行ったら連絡を取ってくれ、と言う中国人のコネの感覚に多少違和感を覚えていたということもあったのだが。
 また1時間半近く歩いて南バスターミナルへ行き、翌日のカシュガル行きのチケットを買おうと思ったのだが、当日分しか扱っていないという。そこで僕は翌日の14:00発のバスがあることを確認して帰るだけにした。これだと時間通りに行けば、宵の刻のカシュガル着、という計算をしてのことだったのだが、これが何の意味も持たなかったことは、すぐ実証された。
 途中、ウイグル人の新婚さんを乗せた車を見かけた。新婚夫婦を乗せた飾り立てた車を先頭に、後ろに楽隊を乗せたトラックが続く。新疆の街ではしばしば見かける光景だ。けれどもこの日僕が見たのは、衝撃的だった。何と、花嫁が車酔いのせいで、走る車の窓から嘔吐していたのだ。これではすべてが台無しである。
 夕食は、市場の近くのウイグル料理のレストランで食べた。もちろん、ラグ麺とシシカバブ。ここの美味さには本当に驚かされた。麺のコシ、ソースは完璧だった。シシカバブの大きさも半端ではない。僕が今までたべてきたのは何だったのだろうか?これ以後、新疆を出るまで、僕の食事はラグ麺とシシカバブウイグル風焼き飯とハミ瓜のコンビネーションとなったのだった。