タシュクルガン→

 朝、カシュガルを出て、バスでタシュクルガンに向かった。
 カシュガルを出てしばらくすると、ぐんぐん高度が上がっていよいよパミール高原に入る。バス一台が通れるくらいの幅の道は、切り立った崖の間を縫うように続いている。崖といっても、ばかでかい岩がゴロゴロして、そして今にも砕石流が発生しそうな非常におっかない代物である。たまにパラパラと小さい岩が落ちてくるが、その度に背筋の辺りが少し寒くなる。崖下に、スクラップになった車や、流された橋、岩石で途切れた道なんかが見えたりした時には尚更だ。隣の漢人があれやこれやと窓の外の景色を解説してくれるが、あまり耳に入ってこない。

 タシュクルガン(“石の城”の意)は美しいパミールの山々に抱かれた小さな街だ。高度は富士山の頂上よりより少し低いくらいらしい。近くに解放軍の駐屯地があるので漢人も目立つが、ここはイラン系のタジク族の自治県。青い瞳を持つ人々が暮らしている。この街外れに、真っ直ぐパキスタンへと続くカラコルムハイウェイのチェックポストがあるのだが、やはり国境は閉じられていた。こればかりはどうしようもない。ソグド人の足跡を辿って西進する旅は、ここで区切りをつけることになった。
 街の中心にある小高い丘、石頭城古址(唐代の砦跡)から、朝陽を浴びて荘厳なまでの美しさを見せた山々を眺めたとき(これで解放軍の朝の軍事教練の掛け声がなければ・・・)、街の下に黄金に輝く湿地帯が広がっていることに気付いた。引き寄せられるように、僕は丘を下りていった。
 湿地帯には、パミールの雪解け水が流れるクリークや家畜の飼料を囲う石組みの小屋が点在している。季節柄なのか、人影は殆ど見えない。聞こえるのは、羊や牛が草をのんびり食む音や、風に乗って流れてくる子供のはしゃぎ声やクリークのせせらぎだけだ。僕は、スケッチをしたり寝転んだりしながら、どんどん奥へ奥へと歩いていった。
 突然、遠くに、白い馬が見えた。次第に大きくなってくる。こちらに向かってくる。馬の背には、純白のスカーフに真紅のバンド―タジクの人々の民族衣装なのだ―に身を包んだ美しい女性が跨っている。僕は・・・この世のものとは思えぬ美しさに魂を抜かれたように、自分の傍らを通り過ぎてゆく白馬を―多分口をあけて―見送った。女性を乗せた白馬は、やがて、見えなくなった。
 この黄金の草原は、夏ならば深緑なのだろう。いつの日か、もう一度ここへ行きたいと思う。そして、パミールを越えたい。

 パミールを越えることが出来なかった僕は、カシュガルに戻ることにした。その日のカシュガル行きのバスは無かったので、急遽仕立て上げられたと思しき乗り合いランドクルーザーに乗り込んだ。
 「乗り込んだ」と簡単に書いたが、実はひと悶着があった。僕が車に気付いた時には車は満員だったのだが、ウイグル人運転手は金払いの良い外国人=僕の姿を見るや、既に乗り込んでいた(ただ一人の)漢人のおばさんを文字通り引きずり下ろしたのだ。おばさんにしてみれば、晴天の霹靂である。泣き叫んで抵抗したが、運転手は問答無用で引きずり下ろし、強引に車を発車させてしまった。おばさんは「ウェイシャマ、ウェイシャマ(何で、何で)〜」とものすごい形相で車に追いすがったが、その姿はどんどん小さくなっていった。僕は、漢人少数民族の微妙な関係のせいにして、とりあえずはそれ以上のことを考えるのをやめることにした。

 さて、カシュガルとタシュクルガンの間には、解放軍によるチェックポストが一箇所ある。往路はパスポートの提示だけで特に問題はなかった。しかし、復路は大事だった。
まず、解放軍の兵士が外国人である僕だけを事務室のような建物へ連行していく。運転手は「仕方ないよ。気長に待つさ」とでも言いいたいのか、肩をすぼめて首を傾げた。 狭苦しい事務室に5〜6人の兵士が僕を囲んで立っている。1人はバックパックをひっくり返し、そして1人は僕に黒く冷たく光る機関銃を突きつける。三白眼の兵士だ。あまりに無機質な目に、僕は背筋がぞっとした。以下、僕と三白眼の会話。中国語と英語のチャンポン。
「どこから入った?タシュクルガンは現在、外国人立ち入り禁止区域だぞ!」
「一昨日、この道を通ったよ。ちゃんとパスポートも見せた」
「嘘をつけ!そんな筈はない。密入国者じゃないのか!?」
「待ってくれ。確かそこの彼が俺のパスポートをチェックした。よく覚えている」
「本当か?(一人の兵士に確認するも、当然否定)どういうことだ?証拠の切符はないのか?」
「もう無いよ・・・。捨てた。本当だ。信じてくれ!!」
「うん?何だこれは。カメラか?何を写した?フィルムも沢山あるな!没収だ!!」
「勘弁してくれ。タシュクルガンで写したのは今入っているフィルムだけだ!(土下座して)」
「(しばらくの押し問答の後)分かった。このフィルムだけ没収だ(フィルムを出した際にカメラ故障)あん?この本は何だ?何が書いてある!?」
「ただの小説だ。こっちは歴史、こっちは経済。怪しいものじゃない。勘弁してくれ(哀願口調)」
「うん?この写真は何だ?誰だこいつは!?(ガイドブックにはさんであったダライラマの写真がばれる)」
「(もう終わった・・・と思いながらやけくそで)友達だよ(他是我的朋友)。俺、仏教徒だし」
「ふーん。そうなのか。まぁ、よし。さて・・・(持ち物全部について質疑が続く)」

 こうして、地獄の30分は終わった。僕の被害はカメラとタシュクルガンの風景を収めたフィルム。痛いが、これまでのフィルムを守れただけでもよしとしなければ。それにしても、解放軍兵士の無学さに救われたと言ったところか。
 何とか建物を出ると、運転手が「災難だったな」とでも言いたいのか、また首をすくめてみせた。その仕草があまりにも事も無げだったので、僕は自分がなぜあそこまで脅えていたのか、分からなくなった。
 ともあれ、どうにかこうにかカシュガルに戻った僕は、その後、西域南道を抜けてトルファン、ハミ、敦煌と戻り、そこから一路ラサへと南下することになったが、それはまた別の話。それにしても、パミールを越えるのと越えないのではえらく違う。

「旅行記:チベット編」に続く>