日野強 『伊黎紀行』

日野強 『伊黎紀行』 東京, 博文館, 明治42(1909)年.

<日誌之部:本文>
<地誌之部:本文>*1

伊予生まれの陸軍軍人・日野強(1865-1920)が清国・新疆視察の命を受けたのは、日露戦争終了翌年の1906年夏のこと。
日露戦争で辛くも勝利したとは言え、新疆北部のイリ(伊黎)地方へのロシアの浸食が脅威だったようだ。そのためにも、日本としては新疆を探検してその実情を把握しておく必要がある。そういった当時の大陸情勢を踏まえての視察命令だった。

乾陵より望む関中平野
日野は北京から鄭州西安、蘭州を経由し、河西回廊を抜けて、新疆へと入っていくのだが、読んでいて目を引いたのは、西安手前の潼関で西安での布教・歴史研究に向かう大谷光瑞一行と出会っていること。ここで日野は大谷から、在カシュガルの英国駐在武官マカートニー等インド総督府の現地駐在官宛の紹介状をもらっている(大谷は1902〜1904年に探検隊を組織して新疆カシュガル〜インドを探検している)のだが、これは日野にとっても心強いものになっただろう。

万里の長城の西端・嘉峪関
さて、新疆に入った日野は、ハミ(ハミ瓜を堪能)、トルファン(ここで発掘中のドイツ人=アルベルト・フォン・ルコックに遭遇)、ウルムチを経て最重要視察対象である清露交雑の地・イリへと進んでいく。日野が新疆視察の中で「旅行中の快事」としているのは、現地に住む、或いは駐在するロシア官民の歓待だった。日露戦争の記憶が冷めやらぬ時分でのことに、日野も大いに心を打たれたようだった。とはいえ、イリでは地方を統括する清国の伊黎将軍の庇護の下、移動したようだ。そして、イリからは天山山脈を越えてカラシャハルへと抜けるルートを選択する。
話は大きく変わるが、僕が新疆を旅行する直前、大学の研究室の指導教官に出発前の挨拶に伺ったところ、大学院生時代に新疆調査に行った経験を持つその先生は
「冬だから難しいかもしれないけど、天山山脈を縦断してみてください。あれは本当にキレイだったなぁ」
と遠い目をして語ってくれたものだった。それを聞いた僕は何とかして天山山脈越えをやろうと思っていたのだが、2001年10月当時イリ地方は突如外国人立ち入り禁止となってしまったので果たすことができなかった。これは今でも心残りだ。

カシュガル・エティガール寺院
閑話休題。日野はこの視察行の中で最大の難所だったと後から述懐した天山山脈越えを伊黎将軍のサポートもあって何とか乗り切ってカラシャハルに出た(途中で老・伊黎可汗にも拝謁している)。そこから西域北道を伝って西のかたカシュガルへ進み、在カシュガルのマカートニーを通じて、カイバル峠を越えて現在のパキスタンへと抜けるルート(インドと新疆を結ぶ「郵便路」だったという)を通ろうとインド総督府と交渉するも、この方面でロシアと緊張関係にあった総督府は拒絶。そこで日野が選択したのは、新疆とインドを結ぶもう一本のルート、「通商路」と呼ばれるカラコルムを越えてラダックのレーへと抜けるルートだった。
再度脱線して僕の話をすると、先に書いたのと同じ事情でカイバル峠越えをあきらめて青海省からチベット経由でインドへ抜けたのだが、当時も現在も日野が取ったカラコルム越えのルートは―名前の通り古来より通商路として利用されているものの―外国人に解放されていないからだ。どちらのルートもいつかは踏破してみたい(もちろん車で)と思っているのだが…。

レー市街地
話を戻す。その後、日野はキャラバンを組んでカラコルムを越えてレーへ到達し、更にカシミールのスリナガルへ出た。そこでインド駐在の日本人武官と合流してインドを横断してカルカッタから海路、帰国した。この一年以上にも及ぶ視察行の一部始終をまとめたのが本書だ。各地の地理・風俗・歴史・情勢等が写真や絵とともにまとめられ、「視察」という名に恥じない仕上がりになっていて、今読んでも十分楽しめる。
ところで、旅を通じて日野は時には騎馬を、時には馬車を移動手段としている。これには、同じ陸軍の情報将校としてシベリアを騎馬で横断した先達・福島安正から

曾て福島将軍に行聞く、旅行をして有利ならしめんには。汽車よりは馬車、馬車よりは騎馬、騎馬よりは徒歩に如かず云々と。其意蓋し、旅行の苦楽に応じて其の得る所反比例を為すと。

というアドバイスを受けていたことがあったのだろう。後半の「旅行の苦楽に応じて其の得る所反比例を為す」というくだりには、時代や背景は全く違う旅行者である僕も強く共感する。

*1:本書には、大正13年12月22日付で地理学者・小牧実繁(当時、第三高等学校地理科教師。後の京都大文学部教授)による書き込みがあって、どこにアンダーラインが引かれているのか見ていくのも興味深い。