カシュガル→

 11月4日、僕は11時ごろバスターミナルに行った。バスの出発までは時間はあるのだが、チケットを取らねばならない。取ってからまた30分歩いてホテルに荷物を取りに行くのは面倒だったのだ。
 無事、下鋪(下段ベッド)のチケットを購入することができた。中国のバスには何と寝台バスがあるのだ。上下二段になっていて、一つのベッドに二人が寝る。寝てしまえば寝返りを打つこともままならないが、寝転べるだけ、夜はすごしやすい。広い中国ならではの産物だろう。しかも僕のベッドには、最初は1人だった。これは有難かった。
 羊肉の脂身を詰めた焼包子を買って、バスに乗り込んだのだが、正直言って僕はバスの中を見て驚いてしまった。ウイグル人の老若男女がびっしり乗っていて、さながらそこは難民船のようだったのだ。おまけにバスもぼろい。ここから2000キロもの長旅に果たして、耐えうるのだろうか?
 案の定、バスは市街地を出るとすぐにエンストした。おまけにトルファン経由で行くのだが、なぜか道の悪い旧道を走り、さらになぜか道を間違えて道なき道を行っていた。
 深夜、トクスンに着いた。ここで一人の漢人が乗り込んできた。そして、空いていた僕の隣へ。彼は金を正規料金で払ってるのに相ベッドはごめんだ、とごねたが、車掌は一切聞く耳を持たない。彼はその後もほかの乗客とのコミュニケーションを全て拒絶したが、その理由はこの一件だけではないだろう。やはり、ウイグル人漢人の仲は良くないのだろう。
 エンジンはいよいよ絶望的になってくる。もはやスピードは30キロも出てないだろう。その場しのぎの応急処置ではどうにもならないだろうというのは、誰の目にも明らかだった。翌未明、コルラで例の漢人を下ろしてから、修理工場で1時間がかりで何とかエンジンを建て直し、ようやくそれなりのスピードでバスは走り出した。
 ところが、1時間も行かないうちに今度は大きな破裂音が。今度はパンクだ。とりあえず方輪走行で最寄りの修理工場まで走った。こういった時、漢人の修理工場が数多くあるのは本当に助かる。しかし、20時間近くかかって、目的地までの3分の1すら到達していないという事実に、僕のイライラは頂点に達していた。それだからといて、車掌に怒鳴っても、逆切れされるだけなのだが。他の乗客が「仕方ないよ」といった感じで為すところ無く荒野を眺めたり、車掌たちと一緒になってああでもないこうでもないとか言いながら車の修理をしたりする境地には、まだ至らなかった。
 おまけに下痢はさらに加速する。バスがトイレ休憩、といってだだっ広い砂漠の真ん中で止まるたびに、ところどころ生えている茂みまで走っていって用を足さねばならなかった。普段は別になんてことないのだが、今回は嫌だった。というのも、前のベッドに可愛らしいウイグル人の女の子が座っていたからだ。彼女はかなりのはにかみ屋だったので、あまり会話らしい会話もしなかったのだが、時々とびきりの笑顔で干果物をくれたりしていると、こっちも妙に意識をしてしまうのだ。
 コルラから相ベッドになった老人は、ごつくて、パートナーとしては最低だったが、豪快な、気持ちの良い男だった。他にもカシュガルの実家に帰るという人のよさそうな親子や、ウイグル人にしては珍しく敬虔なムスリムの双子の老人や、何でも物知り顔に、それでいて人懐っこい笑顔でしゃべりかけてくる老人など、落ち着いて周りを見れば、様々な顔が浮かんできた。
 到着予定の夜になっても、バスは砂漠の中だったが、考えようによっては、下手に夜中に付くよりも、翌日到着したほうが、宿も見つけやすいし、宿代も一泊分浮く。悪くない。その日の夜は、カーステレオでコーランをかけていた。暗闇の中、敬虔な老ツインズがもそもそと西に向かって礼拝しているシルエットが見える。顔の横にあるカーテンを少しずらして外を見ると、オリオンが西に向かって勇ましく進んでいくのが見えた。この時に聞こえるコーランは、オリオンがまるでジハードに赴くかのように思わせる。窓の隙間から流れ込む冷気に、僕はコートを出しておかなかったことを後悔しながら、臭い毛布を頭から被った。

 北京時間8時にカシュガルに到着。ウルムチ時間では6時だから、当然まだ暗い。急におろされたが、どうやらかなりの郊外らしく、乗客は次々とタクシーに乗っていく。タクシーの運転手に値段を聞くと、10元だという。横からバスの運転手も「そんなもんだ」というし、こんな何にも無い場所で凍えているのも冴えない。ここカシュガルで有名な安ホテル、チニワク(其尼瓦克)ホテルまで乗ることにした。
 未舗装のがたがた道を5分も行ったところで降ろされた。これ以上は工事のため行けないという。ここからそのホテルまでは歩いて少しだという。とりあえず言われた方向に歩いてみたが、何せ真っ暗で頼りの看板が見えない。学校や働きに出る人も、結構いるのだが、暗い中で自分のオーラル能力だけで場所を聞くのも難しそうだった。
 僕は大きな工事中の道路を抜けて、もう開いていた食堂で暖をとることにした。石炭ストーブの傍でお茶をすすりながら、店主のウイグル人からホテルの場所を教えてもらい、そのお礼かたがた、朝食をとることにした。頼んだのはウイグル風チャーハン。こいつは夕方にしか食べたことが無かったので、味はともかく油っこいなと思っていたのだが、朝の出来たてのときに食べると、あまり油を吸って折らず、ちょうど良いのだ(朝一で1日分作っておいておくのだ!)。
 そうこうしているうちに、だいぶ夜も明けてきたので、僕は店主に礼を言って表に出た。来たときは暗くて分からなかったが、かなり大きな道だ。その道に沿って2分も歩くと、鶴田真由も泊まったというそのホテルに到着した。カウンターで聞いてみると、ドミトリーはもう無いという。シングルにしようかどうか逡巡していたら、たまたま日本人(ちなみに、この人物とは思わぬところで再会することになる)が出てきたのでこのホテルはどうかと尋ねてみたところ、
「前の道路工事の影響でここのホテルの電気は止まっている」
という。僕はこのホテルに見切りをつけることにした。
 ガイドブックを頼りに30分近く歩いた、華僑賓館というホテルに腰を落ち着けることにした。ここは、パキスタンとの物資の往来に携わる男たちの溜まり場であったのだが、ウイグル人のおばさん達の人の良さと、シングル20元という安さが決め手だった。
 三日ぶりのシャワーと洗濯を済ませてから、街を歩いてみた。ここカシュガルは中国の西端とはいえ、かなりの大都市だ。人民公園も広く、聳え立つ毛沢東像も片手を悠然と上げている。近代的な新市街地は漢人が多く、ウイグル人は少し小高い丘になっている旧市街に集住しているようだ。旧市街は、ロバが疾走し、金物を鍛える音が響く活気があふれた一角だ。日本を出る前には、新聞などで声高に新疆の政情不安を謳われていたが、どうやらそれは実際とはかけ離れた報道だったようだ。
 けれども、そういった表面的な平和とは裏腹に、ここでも9月11日の事件は暗い影を落としていた。何でも、僕がカシュガルに入る1週間ほど前にこの人民公園で新疆独立派グループの政治犯(テロリストだったかもしれない)が家族もろとも公開処刑されたという噂を耳にした。対アフガンのイスラム過激派への強硬姿勢を打ち出したアメリカに、中国も対外的に賛成の意を表明したが、それは対内的にはこれに便乗して新疆独立派を押さえ込もうということでもあるのだろうか。
 自分は次に何処に行けるのか、さっぱり分からないので、とにかくバスターミナルで情報を集めてみることにした。宿にはパキスタンとの国境が先月の27日に閉ざされたという貼紙があり、確かにパキスタン人と思しき男たちが、やることもなくホテルの前に屯っていたが、正確な情報はない。実際に切符売り場で聞くと、パキスタンへの国際バスは中断しているが、国境の街、タシュクルガンへのバスは出ていて、1日1本で毎朝9時半発だという。
 どうやらタシュクルガンまでは行けるらしい。チケットは当日買えるということだったので、2日後に行ってみることにした。