西安→

 僕は太原での一発逆転のおかげで、上機嫌で列車に乗り込んだ。今度の列車の硬座は少し硬かったが、隙間風はちょっと冷たかったが、宴会してトランプして盛り上がる隣の家族連れはうるさかったが、上機嫌だった。どれ位上機嫌だったかと言うと、盛り上がる家族連れから「日本の歌を唄え」と強要されても、安里屋ユンタ−何故これが咄嗟に出たのかは未だに分からない−を大声で唄ったくらいだ。
ただ一つ残念だったのは、太原から西安への道をこの目で見ることができなかったことだ。貧乏旅行者は宿泊代を浮かせることができる夜行列車の誘惑をなかなか断ち切ることができないのだ。
しかし思うのだが、人民はなんて麺好きな人達なのだろう。列車で長距離移動するとなると、一人3つは買い込んでくる。ブランドは康子傳か麺覇。どちらにも共通するのは辛い系の味一つだということ。よく飽きないものだと思う。各車両の後ろには必ずお湯が出る水道があるので、そこから老いも若きも両手で後生大事にカップ麺に湯を入れて持ってくる。一玉平らげると、残りのスープにそのまま別の麺を入れて第二ラウンドに入る。どうやら四千年の伝統も日本の大発明の前では無力らしい。

 翌10月19日朝8時過ぎ、列車は西安駅に到着した。ひどい霧で何も見えない。駅前広場に出るとすぐ、客引きが寄ってきた。僕は50元でシングル、という条件だけ出して、後は彼に任せてみることにした。こういう客引きは複数のホテルと契約を結んでいて、一つが気に入らないと、また次を紹介してくれる。
 二つ目に連れてこられた西苑飯店に、旅装を解くことにした。50元でダブルを一人で使っていという。駅の東側のスラムっぽい場所ではあったが、シングルでこの値段では仕方ない。それに何より、久々のふかふかのベッドが嬉しかった。
 荷物を置いて、すぐ出発した。寝不足と西安に着いたという嬉しさから来る、勢いを殺したくなかったのだ。しかも4キロ先の目的地の碑林博物館まで、よせばいいのにまた歩いていった。西安名物の牛肉ハンバーガーをほおばりながら、意気揚々と。
 碑林博物館は西安近郊で発見された古今の石碑を集めたもので、僕の最大の目的は、唐へのネストリウス派キリスト教伝播の縁起を記す『大秦景教流行中国碑』を実見する事であった。しかし、とうとう実物を見たということより僕を驚かせたのは、この博物館の碑の保存方法であった。墓誌は無造作にコンクリートの壁に埋め込んであるだけだし、石碑などは角を鉄の枠を打ち付けて保護(?)している。剥き出しなので、傷だらけだ。遠足と思しき小学生たちは、紙を碑面に押し付け、その上から鉛筆をこすりつけて簡易拓本をとったりしていた。いくらなんでもこれは…
 しかし、最も印象に残ったのは、唐代の開元石経だった。これは玄宗科挙の正解を定めるという名目の元に、四書五経の注釈を石に刻んで天下に知らしめたものなのだが、これは裏を返せば、これ以外の解釈は許さないという強烈な意思表示に他ならない。そう考えると、その大きさも壮観という言葉では片付けられなくなる。
 バスを間違えて2時間もかかってしまったのだけれど、昼過ぎには西安博物館に着いた。2000年に発掘された前出の安伽墓からの出土品がひょっとしたら展示されているかもしれない、という淡い期待は入った瞬間に砕かれたが、それでも興味深いものを見ることができた。
 唐の王族、李寿の墓から出土した遺体を安置するベッド。これは先に虞弘墓のところで引き合いに出したもの。装飾は派手ではないが、センスを感じる。北周の皇帝の墓誌。中国で数多く立った皇帝の墓誌としては唯一のものであるという。墓門のわきを固める点王の顔もアーリア系だ。仏教が西方から伝来したこともあるだろうが、当時アーリア系の人々、即ち胡人が畏怖の対象であったこともあったのかもしれない。そして、その皇后阿史那氏の金印。これも他に例を見ないもので、取っ手は牛を象っているのも面白い。あと、胡人俑の数も尋常でもなかった。それだけ、一方で当時は胡人の存在がありふれたものだったということの裏返しだろう。
 ここに入るのに、阪大の学生証を見せて学割で入ろうとした。これは上海で成功した手(35元→5元)だったのだが、ここでは見事に失敗した。
「話にならない。ここは中国だよ」
と服務員の女性は僕の学生証を投げてよこしたのだった。
 もう宿に戻ろうかとも思ったが、まだ2時過ぎだったので、最後の気力を振り絞って大雁塔に行くことにした。せっかくの気ままな一人旅なのに、何で自分から好き好んで苦行みたいにしてしまうのか。我ながら情けなくなる。
 大雁塔は玄奘三蔵がインドより帰国してから滞在した寺院で、僕は西安から西へ旅をするならば、絶対ここに立ち寄ろうと決めていたのだ。僕は別に玄奘を気取ろうというつもりではなかったが、やはり偉大なる先輩(こう呼ぶのもおこがましいだろうか?)には敬意を表さずに入られなかったのだ。
 観光客を掻き分け、最上階まで上った。朝から西安の街を覆っていた霧はまだ晴れていない。西の空も、遠くに何も見えない。

 薄暮、ようやく宿に戻った。今日一日の走破距離は優に10キロは越えている。そして、最後の一仕事。近くの旅行会社で翌日のツアーを手配するのだ。西安近郊の見所、と言っても100キロとかそれ以上で近郊なんだから、個人で回っていたら時間がいくらあっても足りない。ただ、僕には一つ譲れない場所があった。それは唐の太宗の墓、昭陵である。ここの博物館にある墓誌が見たかったのだ。そして、その墓誌を集めた『昭陵碑石』を購入すること。午前中、僕は新華書店で何冊か本を買ったが、肝心のこの本だけは置いてなかったのだ。取り寄せとか言ってる場合ではない。直接行くしかない。
 しかし、こんな物好きな所も回ってくれるツアーなんて無いやろな、と思っていたら、いきなり、行くという。おっさんはまくし立てる。
「60元。好不好?」
ラッキーとは思いながらも、ごねまくった。30分後、おっさんは遂にどなった。
「35元。好不好?」
僕たちは固い握手を交わした。しかし、僕は気づくべきだった。これだけどんどん値を下げる、つまりこのツアーは人が足りていないということを。

 泥のように眠って体力を回復した僕は、翌日の朝7時、指定された駅前に行った。昨日の男が茶を入れた水筒を持って待っていた。そして、乗れ、と一台のバンを指す。中を見ると、いかにも地方から出てきました、と言わんばかりの老夫婦が一組座っていただけだった。僕は嫌な予感がした。
 バンは出発の時間を過ぎても、出ない。いや、出れないのだ。人がいないから。そして案の定、僕たちは別のミニバスに乗り換えさせられた。別のツアー会社に売り飛ばされた。昭陵行きはかなり怪しくなてきた。
 今度のミニバスは元気なガイドさん付きで、客も運転手の家族から家族旅行まで、様々で、その気になれば楽しめる面子だったと、今では思う。しかしその時の僕は、ツアーの予定を聞いて、昭陵に一番近づく高宗・則天武后の墓、乾陵でこのグループと別れて一人昭陵に向かうことで頭が一杯だった。ガイドさんも運転手も、協力してくれると言う。あと乾陵に着く時間だけだった。そのため、僕は始終イライラしっぱなしということになってしまったのだ。
 咸陽博物館、茂陵博物館。ここまでは良しとしよう。永泰公主墓。これも壁画は見事だった。(奈良の高松塚なんか比べ物にならない位すごいのに、みんなバシバシ写真を取りまくっていた)しかし、途中の訳の分からない黄土民俗村みたいな所と、しょぼい則天武后記念館や土産物屋に寄った時には、イライラがピークに達していた。さぞアブナイ日本人と思われたことだろう。
 ミニバスは効率良く遺跡から遺跡へと巡ろうとして、その結果西安市郊外の豊かな農村地帯の道なき道を駆け巡った。ちょうど玉蜀黍や林檎の収穫時期に当たっていたようで、家族総出で取り入れ作業を行っていたようだ。ロバが己の10倍以上の草束を引き、子供たちはその上からロバを操る。人々は刈り取った後のだだっ広い畑を、極端に小さい鍬で少しづつ耕していく。この光景はずっと変わらないものだろう。上海とはまた違った中国が僕の前に顔を覗かせている。採りたてのみずみずしい林檎をかじりながら、僕は緑と黄土の織り成す美しい風景を眺めた。
 乾陵に着いた頃にはもう2時になっていた。ツアーの人たちはこれから遅い昼食を取るという。僕にはそんな時間は無い。ガイドさんに昭陵へ行ってくれるツアーバスを探してもらうことにして、僕は乾陵を急いで見ることにした。

 乾陵は高宗と則天武后夫妻の陵墓である。唐帝国の最盛期の皇帝のものとあって、その規模も唐歴代の皇帝の中で最大を誇る。墓というより一つの山だ。僕はその参道の途中にある蕃臣像が見たかったのだ。これは当時入朝していた諸外国の首長の像で、勿論唐の威信をアピールする意図があった。これらの像は何故か首がすべて無い。しかしこれを最も有名にさせているのは背中に各々の出身国・役職・名前が刻まれていることである。それを実見して補訂できればと思っていたのだが、摩滅がひどくて果たせなかった。しかし、思わぬ所に気づいた。則天武后は夫の高宗の紀功碑と対にして自分の紀功碑を建てさせたのだが、そこには字を刻まなかった。これは彼女が「自分の功績は字にすることはできない」とか「自分の功罪は後世の人々が決めること」とか考えたためとか言われる。けれども僕が興味を持ったのは、その形式がモンゴル高原に建てられた、同時代の遊牧帝国突厥のカガンであったキョル・テギンのそれと同じものだったということだ。この符号は当然、偶然ではありえない。
 結局時間が無かったので、頂上までは上らずに途中で引き返した。どうせツアーに残ったとしても、時間が押してるとかいうことで、途中で降りることは分かっていたので、そんなに心残りでもなかった。
 降りてガイドさんを捕まえ、どうなったのかと訊くと、結局ツアーバスは見つからなかったという。しかし変わりにバイク乗りを捕まえておいてくれた。これで公道まで出て、そこからは公共バスで行けと言う。否も応もない。
 公道まで出て、バスに飛び乗った。30分ほどで礼泉県に着く。そこからローカルバスに乗って1時間。着くのは5時に位になりそうだ。こうなると心配は、昭陵博物館の閉館時間である。これも、たまたま乗り合わせたのがその日は非番だった博物館員だったおかげで、解消された。
 博物館で念願の『昭陵碑石』を手に入れ、展示されている墓誌を見て、ようやく僕は一息をついた。緑が多く、黄色い花が美しい。その下のベンチで少女が何か本を読んでいる。僕の心は和んだ、と言いたいところだが、実際は帰りの心配を始めていた。
 ここから礼泉までのバスはいつ来るか、日本語の堪能な博物館員も分からないと言う。こんな農村で一夜を過ごすのは真っ平だったので、隣の売店に買い物に来たバイク乗りに礼泉まで乗せて行ってくれるように頼んだ。ちょっとした交渉の結果、35元で落ち着いた。背に腹は変えられない。
 しかし、この兄さんに頼んだのは正解だった。彼はこんな田舎にあって革ジャンを颯爽と着こなし、豹柄のシートを貼り付けるという族だったのだ。そのスピードたるや!多分時速で測ると大したことないんだろうが、オフロードレース並みの道を突っ走るのだ。着いたら、まだ20分しか経ってなかった。
 正直、その後のことはよく覚えていない。礼泉から西安までのバスがすぐつかまり西安のバスターミナルから駅まで路線バスに乗って、宿まで帰ったのだが、あまりの疲労のせいか頭がボーっとしていたため、細かいことはよく覚えていない。駅前のレストランでその日初めての食事を取ったこと以外は。
 「帰りたいな…」「でも今帰ったら格好悪いな」
真っ暗なバスの中、僕は旅の終わりばかり考えていた。旅に出ると、どうしても必要以上に自分を追い込んでしまう。中国に来て、ちょうど8日目。

 次の日はゆっくり寝た。といっても8時の起床である。旅に出ると、どんどん規則正しく健康的になっていく。この日はゆっくり歩いてみた。のんびりするのが心地よい。この一日をリハビリに充てて、疲れを取ることにした。
 まずは両替。中国では外貨両替は中国銀行のみの扱いとなる。僕は最高でも1週間30000円と計算していたのだが、「学問のため」という錦の御旗の下、かなりの勢いで財布が薄くなっていく。これが目下最大の頭痛の種だ。
 続いてネットカフェへ。といっても旅行者が利用するようなところ、つまり日本語フォントが完備されているようなのは見つけられず、地元の若者が利用するような場所しか見つけられなかった。そこでは一応日本語も打てるが、読み込みも遅くて使い物にならない。この後もラサに着くまでは、中国のネット事情には悩まされた。
 この日は化覚巷にある西安最大のイスラム寺院、清真大寺に行ってみた。この周辺に居住する人間は回族ムスリム漢人)ばかりで、雰囲気にも独特のものがある。
 この清真大寺は唐代に建立されたと言われているが、これは嘘。その由来を記した『創建清真寺碑』も、これは明代の偽刻(ソグド人を登場させたりして、これはこれで面白い)。どちらも権威付けのための付会に過ぎない。それでも僕はこの碑文の録文を作った。何か補正できる箇所があるかもしれないと思ったからだが、帰国してから調べてみたら、桑原隲蔵の作成したものの方が時代が古いということもあってか、遥かに良くできていてがっかりした。
 ここを訪れて、僕はマラッカのカンポン・モスクを思い出した。伝統的な中国風建築なのだが、屋根が緑でどこか非中国的な美しさを放ち、喧騒のチャイナタウンから切り離された静寂の空間。その静寂を破って白いムスリム帽をかぶった老人が地面に痰を吐く。それを聞いて僕は、「やっぱりここは中国だ」と思う。
 省心殿という3層の堂がある。その造形のあまりの美しさに僕は心を奪われた。中に入ってみる。そして自分の心を省みてみる。でも何も浮かばなかった。
 省心殿の西口に男が立った。昼の礼拝の時間だ。この男が生声で祈りの文句を朗詠する。(これはどうやら当番制のようだ)これを合図にして、続々と人が集まってきた。そして大きな礼拝殿に吸い込まれてゆく。100人は越えていただろうか。そして漢人観光客がその礼拝殿を除きこむ。昔から漢人はどのようにこの祈りを眺めてきたのだろうか。

 礼拝が終わると同時に寺を出た。西安の街を“ジャラン・ジャラン”してみる。回民街を抜けて鐘楼周辺へ出る。どうやらこの辺が西安の中心地らしい。大きなマクドナルドがあり(このマクドナルドはこの一月後、ウイグル独立過激派テロにより爆破された)、どうやら今秋大流行らしいフリースを着た若い男女が闊歩する。
 また、西安の街の至る所で西部大開発の看板を目にした。西安はこの国家プロジェクトの基点なのだ。そう。僕は西域への玄関口に立っているのだ。僕は西安の次の目的地に、河西回廊へ抜ける重要なポイントで、大規模なソグド植民集落の存在した固原を選んだ。ここから発見されたソグド人の遺物を見ることが、もちろん最大の目的である。翌10月23日夕方発の列車の切符を購入した。

 朝、チェックアウトしてからまずは郵便局へ行った。買い込んだ本が5キロ以上になっていた。さすがにこんなのを担いではいけないので、日本に送るのだ。安全性を考えて航空便を選んだのだが、その結果料金は10000円近くになってしまった。これは買った本の代金の合計よりも遥かに高い。複雑な気分だ。それでも日本で輸入書籍を買うよりはマシだと自分に言い聞かせることにした。
 夕方まで時間があったので、小雁塔に行ってみた。人が少なく、落ち着いた雰囲気だった。ここでスケッチでもしようかと思ったが、思い直して再び清真大寺に行くことにした。省心殿の美しさを何とかして自分のペンで現してみたかったのだ。
 夕方、西安駅から銀川行きの列車に乗り込んだ。すごい人だ。もちろん硬座なのだが、これは指定席なので助かる。人民軍学校の少年たち(休暇で実家に帰るらしい)や、ビジネスマン、大学生など乗り合わせた人たちも非常に好意的だった。
 夜中の1時過ぎ、固原駅に到着。さすがにかなり冷え込む。真っ暗だし、どうやら駅は街の中心からかなり離れた場所にあるらしい。家路を急ぐ人たちについていってもよかったのだが、眠かったし駅前の鉄道賓館に泊まることにした。シャワー付きシングルが35元と聞いて大喜びで裸になってシャワー室に入ったが、水しか出なかった。文句を言ってもよかったのだが、時間も時間だったし、大目に見ることにした。
 列車の中で横のビジネスマンの読んでいた新聞を少し覗き込んでみたら、張学良が死んだという記事が載っていた。時代は進んでいるのだ。