甘粛→

 朝8時に銀川を出た列車は空いていた。銀川から西域への参道とも言うべき河西回廊を抜けて、万里の長城の西端の嘉峪関までは13時間の列車の旅だ。実は嘉峪関は当初の予定では訪れるつもりは無かった。しかし銀川から西へ向かって出る列車は、最高まででも嘉 峪関までしか行かなかったから、寄らざるを得なくなったのだ。
 初めての昼間の列車移動だったので、ちょうど読み出した本も理解不能で行き詰っていたこともあったし、僕は景色を眺めることにした。テンゲル山脈沿いの荒涼とした大地を過ぎると、いよいよ河西回廊に入る。
古来、西域へ通じる道には二つあった。一つが銀川の方からエチナ川を経由するステップルートで、いま一つが、僕が今辿ろうとする関中から固原を通り、河西回廊を抜けていく道である。
 それにしても、よくぞこの地方を回廊と呼んだことと思う。平行して西北に向かって走る北のテンゲル山脈と、南の祁連山脈の間は、狭いところではわずか数百キロしかない。点在するオアシスを一つでも押さえれば、ルートがそこを走っている以上、強い。しかも、そのオアシスも、時折りゴーストタウンと化した村も見られるが、豊かなものもある。特に武威。ここは河西回廊でも最大のソグド人コロニーがあった場所でもある。
 日が傾くにつれて次第に寒くなってきた。窓の隙間風も、こう車内がガラガラではますます肌身に答える。客が居ないということで、日本ではちょっと考えられないことだが、車内販売の車が来なくなり、ついには服務員が終着駅に着く前からシートをはがし、カーテンをはずし、もう下車の準備をしだした。僕はとうとうセーターを引っ張り出した。
 嘉峪関に着いたときにはもう九時を過ぎていた。セーターの上から革ジャンを着込まないとしのげない寒さだ。僕は群がるタクシー運転手を振り切って、市内へ向かうバスに乗った。暗くてよく分からないが、ここは電飾の雰囲気からして銀川に似ていると思った。
服務員の少女にガイドブックを開いて、「ここへ行きたい」と指したホテルから近いバス停で降ろしてもらう。ここ雄関賓館はかなり大きなホテルだが、総じて中国のホテルには僕たち貧乏旅行者がちょっとひるむくらいのレベルであっても、手ごろなドミトリーがあるので便利だ。しかも、ここは係員が英語を操り、しかも国際時計は正確に時を刻んでいる。これで20元はかなりお得だ。
 案内された部屋のドアを開けた瞬間に危うく声を上げそうになった。中から髭もじゃの小汚い顔のおっさんがぬっと顔を出したのだ。「参ったな…」
おっさんは何と日本人だった。旅に出て初めての日本人だったので、ついつい話がはずむ。しかも夕食をまだ取っていないと言うと、レトルトのご飯と味噌汁を振舞ってくれた。さすがにこれが一番心を和ませる。
 おっさんは会社を引退してから自転車での世界一周をもくろんでいるという。今回はアフガンからイランへ抜けようとしたのだが、例のテロのおかげでパキスタンからクンジュラブ峠を抜けて中国に入り、そしてここまで来たという。
おっさんのもたらしてくれた情報は非常に興味深いものだった。外務省はパキスタンに滞在していた旅行者を、安宿にまで一人一人電話し、それでも動こうとしない人には家族にまで電話させたという。そして驚いたことに、中国へ出発しようとする日本人旅行者に向かって、フンザの人々は
「ここより安全な場所なんて無い。ここに居ろ」
と言ったという。日本で新聞から得られる情報と、実際の乖離はここまで甚だしかったのだ。しかし残念ながら、おっさんにも今の中パ国境の状況は分からないという。やはり行ってみるしかなさそうだ。
 おっさんとは深夜の1時ごろまで色々と喋った。おっさんはこう言った。
「僕ら自転車旅行者は“線”の旅をする。君たちバックパッカーは“点”だ。こんな旅も一度やってみたらいい」

 翌朝、もう日本へ帰るというおっさんと別れた僕は、ホテルで自転車を借りて郊外にある万里の長城を見に行くことにした。
 嘉峪関市街は街の中心に立つ工場労働者の像が物語るように、今や甘粛でも有数の工業都市だ。そういう意味では銀川に似ていると思った僕の第一印象もあながち外れではない。しかし、ここは所詮小さい都市。銀川に比べて、小さいながらも(小さいからこそ、か?)整然とした町並みなのだが、遥かに野暮ったいのは否めない。また、娯楽施設も殆ど無い。つまりまだ、新しい街なのだ。
 まず、6キロほど離れた嘉峪関に行った。ここには明代に作られた大きな楼閣が残っている。まだ8時ごろというのに、もう団体客の姿が見える。中国人は早起きだ。

 城壁に上ると、遥かに雪を頂いた祁連山が連なる雄大な景色に息を呑んだ。一方で、果てしなく広がるゴビ灘に、長城の城壁が頼りなさげだが、しかし確実に連綿と続いていく。近くにはオアシス農村も見える。もう少し目を遠くにやると、もうもうと煙を上げる工業地帯がある。
次いで、市内から12キロばかり離れた懸壁長城に行ってみることにした。果てしなく広がるゴビの中を、オンボロ自転車で走っていく。僕が追い抜くのは、地元の農夫のトラクター。そして僕を追い抜いていくのは工場へ向かうトラック。こんなに青い空のもとで曲がったペダルを目いっぱい漕ぐ僕の頭の中では、Ry CooderのStand by Meが流れていた。


 懸壁長城とは、嘉峪関の東側に位置する小高い山に懸かった長城のことである。このままあの青空まで続いていくのではないかと思わせるような急な坂道を必死で登りきると、僕を待っていたのは360度のパノラマだった。僕は「見張り塔からずっと」眺めていた兵士のようにあたりを見る。
長城の脇に見慣れない寺があったので、近くに寄ってみた。中からは読経が聞こえる。ゴンパ(チベット仏教寺院)だった。確かに内蒙古〜甘粛〜青海〜チベットチベット仏教で結ばれた一つの軸を成していた。チベットも近い。
 最後の気力を振り絞って、嘉峪関を挟んで反対側にある万里の長城第一〓にも行った。僕ら日本人は(ひょっとしたら中国人の大部分も)万里の長城のスタート地点は日本海に面した山海関で、西は長城の果てるところと意識していたが、よくよく考えてみるとこっちをスタートと言っても何ら問題は無いわけで、そうなるとここが「第一〓」というのも頷ける。

 けれども、万里の長城は、河によって唐突に、しかもあっけなく途切れていた。あの立派な楼閣のあった嘉峪関からいくらも離れていない場所で。周りは時々近づいてはまた遠ざかってはいくエンジン音が聞こえるだけで、静寂。このあまりの素っ気無さは、僕にとってはやはり、「果て」にしか見えなかった。けれどもこの潔さはむしろ気持ちの良い物であった。
息も絶え絶えになって何とか市街に戻った。あまりに硬いサドルのおかげで僕の尻は3つに割れんばかりであった。僕が泣きそうになりながらベッドに倒れこむと、新しい旅行者が入ってきていた。
 2人はニュージーランドの大学生で、万里の長城に沿って自転車でここまで来たのだという。タイミングがタイミングなだけに、僕はかなり尊敬の眼差しで彼らを眺めた。そして更に驚いたことに、所要日数は何と、たった3週間だという。しかし、あまりの疲労のため倒れこんで酸素を吸っている片方をみると、「よし、俺も」という気にはなかなかならない。

 嘉峪関から朝日を見たら、さぞかし素晴らしいものになるだろうと思って、朝早くに目を覚ましたが、寒いのと、そして何よりまだ股が痛かったということで断念した。
 朝食を朝市で摂ろうと考えて8時前からホテルの周りを歩いてみたが、見つからない。さすがにこれには参った。パンをかじりながら、バスターミナルで敦煌行きのバスの時間を聞いてみたら、何と10分後の9時発のものがあるという。僕は迷わずこれに乗ることに決めた。ダッシュでホテルに戻り、大急ぎで荷造りしてバスに飛び乗った。
 敦煌行きのバスは、時間が早かったせいもあってか、空いていた。市街地を出てから、ただただひたすらにゴビの中を走るこのバスは、えらく揺れ、また日差しもきつい。僕は一人の乗客が気になった。頭を短く刈り込んだ彼は、やたら神経質な性格らしく、日差しや隙間風をやたら気にしてハンカチを口に当てながら、頻繁に席を移る。服務員に時間をやたら尋ねる。そう、指導教官のM氏を見ているようだった。
安西などの小さなオアシス都市を過ぎて大きな街に着いたな、と思ったら、そこが敦煌だった。ポプラ並木を見て、ここが今まで通りすぎてきた街とは雰囲気が少し違うなと感じた。いよいよ西域の玄関口なのだ。
 バスを降りてすぐつかまった客引きに連れられて、バスターミナルの側のホテルに行った。汚くて、とてもではないが泊まりたいという気は起こらなかったが、20元のドミトリーで、一部屋を一人で使ってよいとうのでそこに宿を決めることにした。
 4時を回ってきたので、郊外の砂漠に夕日を見に行くことにした。隣のレストランで自転車を借りて、6キロほど離れた鳴沙山まで決死のツーリング。振動が尻に食い込む。同じ場所へ向かう乗り合いバスに追い越されたときは、心底自分の選択の失敗を悔やんだ。
 鳴沙山は50元というとんでもない入場料を取る上に、入ってもやれ送迎車だ何だと金を取る。極めつけは砂漠の山を登るために階段があつらえられているのだが、その使用料とかほざいて5元取る。確かに、僕らが通常思い描く「月の砂漠を〜♪」みたいなステレオタイプのような砂漠はあまりなくて、実際は砂礫のゴビがほとんどなわけだから、このような見事な砂漠が街のすぐ側にあるというのは、珍しいことかもしれない。けれども、ただの砂漠ではないか…。
 それでも、5元払って上った砂漠の山を登りきると、そんなことは頭から一瞬で消し飛んだ。時正に日が砂漠の向こうに沈まんとしていた。光と影が砂のキャンバスに描くコントラストに僕はやられていた。
気づけば、あたりはだいぶ暗くなっていた。空には満月が懸かっていた。寒くなってきたし、僕は足元の明るいうちに戻ることにした。
活気のある屋台市場のような場所で夕食を取った。ビールと羊のモツの煮込み。銀川以降、羊料理ばかりだ。そして、僕は羊にハマった。日本人はおろか、外国人の観光客を全然見かけない。観光シーズンが過ぎると、中国人グループばかりになるようだ。

 翌朝7時頃、突然の来訪者によって起こされた。日本人パッカーだ。何でも半年でユーラシアを一週する途中で(無謀な話だが)、今日ラサから来たという。敦煌チベットへのバスが出る所でもあるのだ。
 莫高窟も入場料は80元と、半端な高さではない。中国というのは、物価は日本より安いのだが、こと観光となると、そんなに変わらない。こちらではやはり旅行はまだ余裕のある人のもの、または一世一代の晴れの舞台ということで、取れるだけ取ろうということなのだろう。それが外国人ともなれば尚更だ。
僕は安い方の中国人向けグループに入って各窟を見て回ったのだが、普通の会話でさえ怪しい僕の語学力ではガイドの解説は全く理解不能で、説明に大仰にリアクションを取り、各窟で小まめに賽銭を置き、またお祈りして感動しきりのM氏とは対照的に、僕は冷めていた。解説だけの問題ではなくて、実際のところ窟内は暗くて画があまりよく見えないうえに、ガイドが数ある石窟の中からチョイスして連れて行く、つまり見たかったものが見れなかったりしたことも原因だった。
 それでも、第17窟では立ち止まってしまった。ここそが、かのぺリオが二日二晩閉じこもってあらゆる文書(いわゆる敦煌文書)に目を通して、フランスに持ち帰るものを決めたという、あの場所だ。うちのボスはこの三日間のためだけにぺリオが存在したといっても過言ではないとか言っていたっけ。何かに取り憑かれた様にろうそくを頼りに背中を丸めて文書に見入るぺリオの執念が、まだそこにあるような気がした。
サイボーグのような莫高窟を出て、M氏と二人でタクシーをシェアして市内へ戻った。こういう時の現地の人というのは有難い。余計な労力を使わずに済む。
 敦煌は中国の帝国の西方への玄関口としても有名だが、沙州歸義軍節度使政権として独立していた時期もある。独立国とは言っても小さく、また遊牧民族のくびきから離れていたわけではなかった。その居城敦煌故城、といってもそこは朽ち果てて畑に埋没しかかった城壁しか残っておらず、その上を悠然と放し飼いされた羊が歩いてゆくだけののどかな場所だ。街としても、観光でやっていくしかないのは明白であり、それは大きな交差点の真ん中に立てられた銅像が壁画から取った天女の像であることを見れば分かる。嘉峪関の場合が鉱夫だったのとあまりにも対照的だ。

 次の日はタクシーをチャーターして、郊外の遺跡をまとめて見て回る予定で、8時過ぎに外へ出た。8時だというのにまだ暗い。何故か?中国は広いからだ。つまり北京を中心にした時間と、こんな西の方の土地では当然ギャップが生まれる。そういうわけで、子供たちは北京時間に合わせて暗いうちから学校に行くことになる。ウイグル自治区では時差を考慮したウルムチ時間というのを設けているらしいが、ここはまだ甘粛なのだ。
前日に予約しておいたはずのタクシーが来なかったので、客待ちしていたタクシーを捕まえて行くことにした。一日180元で、遺跡の入場料などは含まない。
 市街地を出てしばらくすると、360度ゴビの中を走ることになる。あまりの寒さでテンションは全然上がらない。漢代から唐代にかけて西方への中国の門であった玉門関、陽関。漢代の砦跡で、その廃墟があまりに美しい河倉故城。いよいよ「中華」を出て「西域」へ出発するのだ。茫々たるゴビの前に立ち尽くす自分を、僕は先達の誰に譬えられるのだろう。何にかきたてられてこの砂漠を越えるというのか。ただただ道楽ではないのか。恵まれた時代の旅人は、甘やかされているのでそれはそれで大変なのだ。
 すべて見終わって昼過ぎには市内に戻ったのだが、どうも熱っぽい。車内の寒さと、直射日光にずっと当てられていたことで、身体が変調をきたしていたのは明らかだった。翌日のハミ行きのバスチケットはもう手にあった。こんな場所でくたばっている場合ではない。しかし身体が動かない。暖かくして寝ることしか、できない。
 夕方少しましになったので、これからの寒さに備えて、コートを買いに行った。目をつけてあった本物のよう羊の毛を使用した人民解放軍コートを300元で買った。さすがのボリュームだ。5キロは下るまい。しかもリュックに詰めてみたところ、そのスペースの半分を占め、そして重さも半端でなくなった。これであんまりいらんかったら泣く。この僕の嫌な予感は的中した。
 夜、ひたすら寝る僕を気にかけてくれるカナダ人女性が、見かねてお茶を入れてくれた。僕は有り難く頂いたのだが、それが更なる悲劇の始まりだった。夜中、ひどい下痢に襲われたのだった。旅を始めて2週間あまり。疲労が一気に押し寄せたのだろう。絶望的な気分だった。