太原→

 夜が明けると、車窓の風景は一変していた。朝もやの中にかすかに見えるのは黄土の畑作地帯。植わっているのは高粱や玉蜀黍だろうか。そこに壁で囲まれたレンガ造りの集落が点在している。まぎれもなく、列車は華北を走っていた。窓の隙間から入ってくる空気も、少し肌寒い。
 一大工業都市、石家荘で乗客が大幅に減って、列車太白山脈に入る。これを越えれば山西省に入る。漠然と窓を眺めていると、面白いことに気づいた。山は地下資源を掘るべく、穴だらけなのだが、山の東側は山肌が白っぽく、西側は黒いのだ。白は石灰のせいだろうし、黒は石炭のせいだろう。日本軍も注目した山西の地下資源は、現在も健在のようだ。そのためか、川が見事なエメラルド色になっていて、異様な印象を受ける。
 その日の夕方、もう暗くなったころ太原に到着した。さすがに疲労が溜まっていたので、客引きが連れて行ってくれた、駅の側の汚い宿に泊まることにした。金のないビジネスマンが泊まるところで、硬いベッドに汚いトイレ。お湯がふんだんにあることだけが唯一の救いだった。外国人旅行者など、いようはずもない。その夜は、相部屋−3人部屋だった−男の、空前絶後のいびきのおかげで、まんじりともできなかった。
 翌日、駅で二日後の西安行きの列車の切符を買おうとした。拙い中国語で何とか言ったが、女性服務員は一言。
「没有」
電光掲示板に残席あり、とあるにもかかわらずである。食い下がっても取り付く島もない。やむなく近くの旅行会社で切符を買った。こっちの愛想の悪さもすざまじいが、まだ聞こうという意思があるだけマシではあった。覚悟はしていたが、これほどとは…。とにかく、西安へ行く用意はできた。あとはここで、見るべきものを見るだけだ。
 太原はメインの通りである迎沢大街はかなり大きいが、行き交う人や、街の雰囲気はやはり地方都市のそれだった。そこから少しわきへそれると、そこにはやはり猥雑で濃密な、中国独特の空気が流れていた。崇善寺に集まる、僕が子供の頃の時代からそのままタイムスリップしてきたような格好の人たちが、物凄いエネルギーを発散させながら長い線香を持って祈りを捧げていた。東南アジアの華僑街の廟や寺院でも思うことだが、本場はそれどころではなかった。そして、その裏手に周りの喧騒から隔離されたかのようにひっそりとたたずむ山西省博物館へ。やはり上海の後では辛い。
 その向かいに、山西省文物研究所があるのに気づいた僕は、躊躇せず中に入った。太原での最大の目的、1999年に太原市郊外から発見された隋代のソグド人、虞弘の墓の出土品を見ることができるかもしれないからだ。

 ここで虞弘について触れておこう。彼がソグド人かどうかはまだ確定されたわけではないが、その墓から出土した死者を安置したベッドにはペルシアで生まれたゾロアスター教のテーマをモチーフとした大変豪勢な装飾が施されている。その墓誌によると、北斉、遊牧帝国の柔然、そして隋と主を替え、薩寶という、ソグド人に信者の多かったゾロアスター教関係の事を掌る要職に就いたという。
しかし、何故ソグド人の足跡が太原にあることが僕の興味をひくのか。それはここが遊牧文明と農耕文明が入り混じる場所であるということが一つのヒントになる。中国内地なのでイメージとしては持ちにくいが、実際はこの地は半遊牧地帯なのだ。ソグド商人は遊牧帝国にあってはそのブレーンとして勢力圏内の交通を牛耳り、農耕文明世界においては交易ルート沿いにコロニーを形成して東西交易の主役となった。太原にも彼らのコロニーがあった上に、虞弘は遊牧勢力とも繫がりがあった。その交易は、鉄・石炭などの山西の豊かな地下資源を基盤にしたものであったと思われる。そしてこの事は、山西が北朝諸王朝、唐といった帝国の揺籃の地となったこととも無関係ではありえない。この遊牧と農耕のマージナルな空間に生きた異邦人ソグド商人。これを研究対象とする者にとっては、何はさておき見なければならない。

 話がそれた。ともかく、僕は山西省文物研究所に入り、一人の老学者を捕まえた。どうもうまく話しても伝わらなかったので、何とか筆談で得た情報によると、太原市考古研究所にあるという。それだけ書くと老学者はもう煩わさないでくれ、という風に建物の奥に消えていった。
そこで得られる情報はもう無いと思った僕は、バスで郊外の晋祠に向かった。太原は周の武王が中華を統一したとき、弟の唐叔虞を封じた土地で、晋祠は彼を祀っているのだ。現在の建物自体は北宋のものだが、晋祠そのものは2500年もの歴史を誇る。そしてこれがこの地方に一定の影響を及ぼし続けたのは、境内に唐太宗御製の碑があったり、虞弘の墓誌に晋祠のことが触れられていることからも察せられる。唐叔虞本人の廟より、その母親の廟、聖母殿の方が立派であることが面白い。
晋祠から程近い王廓村で虞弘墓が発掘されたというので、僕はタクシーをチャーターしてそこに向かってみた。なんでもない農村の玉蜀黍畑の脇が、その場所だという。もちろん、今は何も無い。この日本人、何が楽しくてこんな所に来るんやろう、といった感じで不思議そうな感じで農夫が僕を見る。
タクシーの運転手にダメ元で尋いてみた。
「太原市考古研究所を知ってるか」
「知ってる、知ってる。連れてってやる」
と運転手。渡りに船、とばかりに彼にまかせることにした。言い値は100元だったが、交渉の結果、50元に。それでもまだ高かったことは後から分かった。まだ僕は中国の物価がまだつかめてなかったのだ。
 タクシーはそのまま市内に戻る。そして市内を迷走し始めた。何のことはない。運転手は太原市考古研究所なんて知らなかったのだ。日本でも、何とか研究所とかなんて、一般人でいったい誰が知るというのだろう。考えれば当たり前だが、ひょっとして、と微かな期待に僕はつけこまれたのだ。
 電話をしたり道行く人に聞いたりして、運転手も頑張ったが、とうとう弱音を言い出した。
「これまでだ。金を払ってくれ」
「何言うてんねん。おまえ知ってる言うたやないか。行かないのなら払わん」
怒鳴る僕。人民相手には強気で出ないと付け込まれる。言葉を投げつけるのだ。そうすると、さすがにブツブツ言いながらもまた迷走し始める。
 とあるアパートの前で降ろされた。ここだ、と言う。本当かなと訝りながらも、たまたま出てきた男に話しかけてみる。どうやらここは考古研究所の職員住宅らしい。男の差し出した名刺を見ると、考古研究所の副所長だという。僕はここぞとばかりに目的を話した。はるばる日本から来た学生だ。北京大学の某先生も知っている…しかし、彼の答えは極めて明快だった。
「対不起。これは今研究中で、公開してないんだ」
僕は名刺を貰っただけで満足するしかなかった。まあいい。次の手はまた考えるか…

 翌日は太原市からバスで南に一時間ばかりの場所にある、平遥に行った。こう書くと何でも無いが、7時発のはずのバスが市内を出たのは8時だった。集客するために街中をゆっくりぐるぐる回っていたためだ。車掌が「平遥!平遥!」叫び、扉をバンバン叩きながら。東南アジアでは見なかった光景だ。しかしこれには利点もある。車からではあるけれど、街中を見れることだ。バスは玉蜀黍や野菜で溢れる市場を抜け、何故か大勢の男たちがたむろする街角の横をかすめ、怪しげな電化製品を抱えた商店街を通り過ぎる。いらいらさえ克服すれば、なかなか楽しめる。もちろん僕も、最初からそれができたわけではなかったが。
 狭く汚いバスから解放された途端、バイタクの男達に囲まれた。どうやら平遥城までは行かないらしいらしく、それらしき建物は砂塵のせいもあってか視界に入らない。ここから5元で平遥城まで行くという。距離も分からないし、とりあえず乗ってみることにした。
 5分もすると、平遥城に着いた。妥当な値段だったようだ。しかし、運転手が帰りも送ってやる、良い所に案内してやる、と付きまとってくる。彼が心からの親切でそう言っているのか、胸に一物をもっているのか、何とも判断つきかねたが、それ以前にうざかったので、かなり強い口調で強引に帰らせた。どうも旅が硬直している。
こういう時はえてして悪いことが重なる。昼食をとるために入った食堂で、僕は名物の牛肉麺を食べようとした。店員はここぞとばかりにもっと高い料理を勧めてくる。僕にはそんな金は無いので、当然断る。いや、断った筈だった。しばらくすると、何と全部出てきたのである。いくら知らない、と突っぱねても、向こうも旦那は折れかけたのだが、まん丸い女将は一歩も引かない。そのうち僕がしびれを切らして、金を払うことにした。これも、まだあの時点では中国の物価をまだ把握しきれてなかったせいもあるのだが、やはり悔しい。とても食べきれる量ではなかったので、干肉は持ち帰り、野菜炒めは
「おまえらで食べろや」
と店員につき返した。するとあろうことか、一転して笑顔で「謝謝」と言って、隣の部屋で家族で食べだしたのだ。これには僕も開いた口がふさがらず、苦笑するしかなかった。
 平遥は明代の県城がそのまま残る貴重な城郭都市で、ユネスコ世界遺産にも登録されている。城壁や県衙の配置もそのままで、興味深い。鐘楼を中心とした目抜き通りは全く観光化されていて、通り沿いには名物の牛肉を扱う店が並び、肉肉肉、また肉の黄色い旗が。笑かそうとしているわけでもあるまいが。
 それでも通りを石炭を積んだ車を引くロバが闊歩し、高粱を通りいっぱいに広げて乾かしていたりと、昔ながらの華北の街の暮らしが顔を出す。身が詰まって結構食べ応えがある玉蜀黍をかじりながら、子供たちが駆け回る裏通りを歩くと、タイムスリップした気分になる。それにしても、性病薬のポスターが街中に溢れるのは何故だろう。
 夕方には太原市内に戻った。そして部屋に戻ると、また同じ相棒が待っていた。彼は人懐っこい笑顔を浮かべながら、食え、とみかんを差し出す。今夜もまた眠れそうにない。

 太原三日目。もともとは介休県のゾロアスター教寺院を見に行く予定だったが、あきらめて虞弘墓へのラストチャンスに賭けることにした。宿を引き払い、駅に荷物を預けてから、一昨日手に入れた名刺に書いてあった住所を頼りに、人に尋ねながら太原市考古研究所を探す。二時間以上も街中をかけずり回っているうちに、雨まで降ってきた。僕は少しの金をケチってタクシーを使わなかったことを猛烈に後悔した。
 住所ではある筈の場所なのに、それらしき建物は見当たらない。近所の人に聞いても誰も知らないという。そんな馬鹿なことがあるだろうか。でも実際あったんだからやってられない。僕はある大きな建物に入ってみた。そこは病院か何かで、同じ公共機関なら何か知っているかもしれない、と最後の望みを託したのだ。
 守衛のじいさんに訊くと、何とこの奥の建物に入っているという。中国の小さな公共機関は一つの大きな建物に入っている場合があり、しかも看板を出さない、タチの悪いものだということが分かった。
 人気のない建物の階段を登る。これで誰も居なかったら、全て水泡に帰す。祈るような気持ちで教えられたフロアーに上がると、鉄格子の扉が。中に人は居るようだ。僕は大声で呼んだ。扉をガチャガチャやった。
 出てきたのは、眼鏡をかけたいかにも院生といった風情の青年だった。僕はここで人生最大の大芝居を打った。一昨日貰った名刺と大学院の学生証を見せ、
「俺は副所長の知り合いだ。怪しい者ではない。ほら、身分証もある。入れてくれ」
と懇願した。彼はびっくりした顔をしていたが、名刺がものを言ったのか、副所長は不在だけど、と言いつつ、中へ招き入れてくれた。
 ちょっと可愛い女の子が温かいお茶を入れてくれた。降りしきる雨で体の芯まで冷え切った体が、少しずつ感覚を取り戻してゆく。一息ついたところで用件を切り出した。日本から来た学生であること。隋唐時代のソグド人の研究をしていること。そんなわけで最近発見された虞弘墓からの出土物に興味がある。ついては少しでも見せてくれないだろうか?ここにあるということは山西省文物研究所で聞いてきたのだ…。
 しかし、彼らは力なく首を振るしかなかった。責任者である所長に聞かなければ分からないという。それはそうだ。ここで待っていてよいという。僕はそうさせてもらうことにした。副所長が居なくてかえってよかった。居たら一度断った手前、また断られていただろう。
 二人と雑談していると、所長がやって来た。また同じことを話す。とびっきりの笑顔で、熱心に。所長は少し考えてから、こう言った。
「分かった。日本からわざわざ来てくれたんだから、見せてあげよう。ただし、ここには無いんだ。ここにある。ここの所長には私が電話しておこう」
と、所長が書いたのは太原市晋源区旅游局。地図を見てさらに驚いた。そこは晋祠の傍にある病院だったのだ。
時計を見ると11時過ぎ。列車は17:50。まだ時間はある。ついにやった!僕はこみ上げる興奮を抑えきれず、とびっきりの笑顔で所長と握手し、雨の中を走り出した。最後にものを言うのは、笑顔と情熱だったのだ。
1時間後、晋祠前に着いた時には雨も上がっていた。僕は小走りで病院へ急いだ。ホラーでも撮れそうな病院の中に入ると、そこには公安も入っているという異様な寄り合い所帯だった。最初に訊いた2人は旅游局がここに入っているなんて知らない、と言った。やはりやりすぎなのだ。そして3人目から得た情報から、2階の隅の事務室をとうとう発見した。
副所長の李氏は笑顔で出迎えてくれた。話もそこそこに下の倉庫に案内してもらう。ボロボロの木の扉の向こうに、それは無造作に置かれていた。家型のベッドは屋根を外してあり、人骨は台座の中のダンボールに突っ込まれていた。いかにも中国らしい。
 予想を超えた大きさに僕は思わず声を上げた。かくも立派だったとは。この異邦人の往年の力が偲ばれる。次の日に西安でみた唐の王族のそれと比べても、引けを取らないどころか、むしろそれ以上だった。この異様な文様も、当時の人々の度肝を抜いたことであろう。しかし、この文様は西安で発見された、ほぼ同時代のソグド人安伽の金で装飾されたベッドとは全く違う。むしろ滋賀の三保美術館にあるベッドと近い。ひょっとしたら、同じソグド人のベッドにしても、北方遊牧民族との結びつきが強い山西・山東のそれと、関中のそれとは、地域差があるのかもしれない。
写真を撮っていいか、と訊ねると、構わないと言う。各面をバラバラに撮ったものは存在するが、組み立てられたものを撮った写真はまだ見たことない。僕は手が震えた。シャッターを押す。明らかにぶれた。失敗だ。それにどうもフレームに収まりきらない。李氏は横に置いてある屋根に乗って撮ったら丁度良かろうと言う。一瞬耳を疑ったが、好意に甘えることにした。
この至福の時間は30分にも満たなかったが、僕は満足だった。これを見た日本人は僕が最初ではなかったらしいが、頬擦りした人間は初めてだろう。僕は李氏と固い握手を交わして、病院を後にした。