上海→

 蘇州号では旅行会社による中国ビザ代行取得も行っていて、乗船時に乗客は手数料と必要書類を提出し、旅行会社員が船から中国本土へFAXでそれを送る。そして船が着くとビザが用意されている。こういう仕組みだった。しめて10000円。僕もそれを申し込んでいた。日本で中国ビザを個人取得するのは大変なことだったからだ。
船が岸に着くと、乗客は一人また一人と呼ばれてパスポートを受け取り、陸地の人となっていった。船旅で親しくなった旅行者や留学生、ビジネスマンも次々と退屈極まりなかった船を後にしてゆく。ところが、僕の名前は呼ばれない。そしてとうとう一人になった。
旅行会社員によると、出来上がったビザに僕の名前の漢字が間違っていたので、ビザの再発行のために公安へ行くので1時間半待て、という。
「字が汚いから間違えちゃったよ」
こう言われては、何とも答えようがない。僕を監視する公安を相手に、上海を目の前にして足踏みすることになってしまった。
 例の旅行会社員は2時間ほどして、ビザを書き換えて持ってきたが、入国審査を受けるために公安へこれから行くという。笑いながらも監視役の公安は僕の側を離れない。悪名高い中国公安に、僕はそれなりの出費を覚悟した。
 しかし、結果は拍子抜けする位に手続きはスムーズに済んだ。公安局までのタクシー代も旅行会社持ちだったし、公安も親切だった。おまけに旅行会社員が、お詫びにということで、泊まる予定だった浦江飯店まで連れて行ってくれたうえに、少し上海の街を案内してくれるという。お釣りがくるくらいだ。
 その旅行害社員は、徐という少年だった。蘇州号添乗員として、火曜にはまた日本に向かうという。彼も「移動」を生活の場としているのだ。家は浦江飯店やバンドの対岸のマンション街にあるという。どうやらそちらが新興開発地域らしい。
彼は、僕の大きなバックパックを見て、ニヤニヤしながら(彼はいつもニヤニヤしていた)言ったものだ。
「旅ですね」
そして僕のかぶっていた、お気に入りのヘンプ帽を見て、こうも言った。
「こんなに暑いのに帽子なんてかぶってたら、アホと思われるよ」
彼がいてくれたおかげで、すんなり上海に入っていけたように思う。それは、彼が僕の格好を見て言った言葉とは裏腹に、自分が今中国にいるんだ、旅が始まっているんだ、という現実感が持てないことにも繋がっていたのだが、その感覚は悪いものではなかった。
 彼の案内してくれようとする上海は、僕の想像を遥かに超えたメガシティだった。テレビ塔を中心とした近未来的な建物群と、その対岸のバンドの町並みの対比も素直に素晴らしいと思えたし、土産物街といった趣きの豫園での観光客の賑わいにも、好き嫌いは別にして、圧倒された。
ただ、近道といって彼が時折り分け入っていく汚い裏路地や、ガード下の商店街のような所の方が僕には面白かった。華やかなネオンもあまりなく、薄暗い光の中の怪しげな店で漢人が道行く人にガンを飛ばし、屋台のウイグル人が物憂げに僕を見上げる。折からのAPEC開催で更に加速された上海の表面の華やかさとは正反対の顔が、そこにはあった。
 翌朝、僕はバンドを歩いてみた。昨日すでに物価も高く、またAPECのあおりで雰囲気がピリピリしてきた上海を出て、最初の目的地の太原に向かうことを決めていたので、見納めという気持ちだった。テレビ塔を背景に、人民が太極拳やら、剣舞やら、果てはエアロビまで踊っていた。みんなで体を動かせれば何でもいいのだろうか。どんなに建物は変わっても、人民は変わらない。豆乳も美味しい。
 午前中に宿を引き払った僕は、夕方の列車までに時間があったので、上海国立博物館に行ってみた。上海出土のものに限らず、幅広く貴重な文物が大量に展示されていて、その物量に圧倒された僕は、あっという間に四時間という、僕の博物館、美術館といった建物の滞在記録を更新してしまった。と言いつつ、展示品の記憶はだいぶ薄れてしまったが、メモを見返してみると、玉の人形、北朝の千仏壁、唐三彩の駱駝が特に残ったらしい。
 博物館から疲れて出てきた僕は、人民公園で少し休憩していた。そこでは子供が凧揚げを楽しむ姿が多く見られたのだが、驚いたことにそこには大人も数多く混じっていた。しかも子供がやっているのが面白く見えてきて取り上げ、果ては隣の同じような大人と張り合い、糸が切れたら子供に買いに行かせる、というおよそ大人気ないことを臆面もなくやっている。これからの中国旅行が思いやられるような光景だった。
 上海駅までは地下鉄で一本だ。降りると、そこには空港かと見まごうばかりの上海駅があった。APRCを意識して、気合入れて作り直したらしい。X線での手荷物検査や、ホーム毎にある巨大な待合室も、果たしてこれが列車の駅だろうかと思うくらい、すべてが大仰なのだ。
 僕は駅前の店で、マクドナルドで腹ごしらえしてから、30時間という未体験の長時間の列車移動に備えてカップ麺を買い込んで、そして乗り込んだ。仕方なかったこととはいえ、江南の街をロクに見ることなく、華北へと移動してしまうことは残念だったが、それ以上に、僕は宿にヘンプ帽を忘れてきたことが心残りだった。
 僕が乗ったのは硬座と呼ばれる、一番安い席だった。この上には硬臥と呼ばれる寝台しかないのだが、こちらは値段がお話にならないくらい高いし、また取りにくいので、現実的ではない。硬座はビニール張りのベンチシートだが、タイの列車の2等に匹敵したものだったので、僕としては満足だった。そこにびっしりと人民が乗り込み、荷物をあたり構わず置き、絶えずひまわりの種を器用に前歯で皮をむいては床に巻き散らす。そしてカップ麺を食う。けっこう頻繁に服務員が箒片手に床を掃除しに来るのだが、その度に集められるゴミの量たるや、半端ではない。こうこうと光る電気のもと、みんな何とかして楽な体勢を取ろうとするのだが、人民を見ていると、こんな体勢でよく寝れるなというのが多い。かく言う僕は、窓の下から出ている小さな机を他の人民と分け合ってそこに腕と頭を乗せて何とか眠った、いや、眠ろうとした。