ビールと提灯:フエ〜ホイアン

 やはり眠れない。何時になったんだろう。周りのやつはみんな気持ちよそうに眠っている。口まで開けて、えらく気持ちよさそうだ。
向かいの建築科の大学生は大学のあるフエに戻る途中だという。斜め向かいの男はフエに仕事を持っているとか言っていたが、シャイな性格らしくそれ以上のことは聞き出せなかった。隣の労働者風の男は、興味津々に僕に根掘り葉掘りと質問して、僕が答える度に大笑いしていた大学生に少々辟易していたようで、広いスペースを求めて裏の席へ移ったきりだ。いずれにせよ、皆楽しい道連ればかりだ。
 インドや中国で夜行列車に乗ろうものなら、隙あらば自分の領域を広げようと虎視眈々と狙う人民と、一晩中駆け引きを繰り広げなければいけない。あの殺伐とした空気が流れていない分、ここは遥かに楽だ。
 それでも、僕は眠れない。

 気づくと、窓の外は朝靄の中の田園風景だった。
 間もなく、朝食の時間になった。ベトナムの列車には、一等から三等まで全てに食事が付く。味にさえ目をつむれば、食費を浮かすことが出来て旅行者にとっては有難い制度だ。ベトナムでは列車はまだまだ高級な移動手段であることの現れとも言える。
しかしこれは反面、列車の旅の楽しみの一つである多彩な物売りの人々を、旅行者から奪ってしまっているのも事実で、その点では物足りなく思える。
 ちなみに、朝食は伸びきったインスタント麺で、昼食が肉野菜炒めが付け合せの弁当。蓋もせず、直接弁当を重ねるのには少し引いたけれども、喉が渇いたな、と思った頃にはミネラルウォーターまで配ってくれる。正に至れり尽くせりである。
 車窓から見える風景も、一様ではない。肥沃そのものだった水田地帯も、駅に止まるたびに子供たちが列車の窓に精一杯その短い腕を伸ばして飲み物やおかずを差し出す、貧しい山間部に入ると、同じ国かと思わされる。更に奥の少数民族のエリアはどうなのだろう?
プノンペンやシェム・リアプで見たベトナム人娼婦たちも幼い頃はこうやって列車に一生懸命手を伸ばしていたのだろうか?

 フエには1時間遅れの16時半に到着した。結局、20時間も列車に揺られていたことになる。彼女との久しぶりの再会に夢中の大学生と別れて、僕は駅前に群がるバイクタクシーの客引きを振り切って、安宿の集まる新市街へと歩いていった。
 旅行者の姿が目に付く、路地裏の安ホテルのエリアに入った。路地から出てきた日本人に大体の相場を聞いてみると、路地の奥の日本人宿のシングルで7$だという。日本人宿に泊まるのは避けたかったので、入り口に程近い、可愛い女の子がレセプションに居るまだ新しいホテルに荷物を降ろすことにした。
 シャワーと洗濯を済ませても、長時間の移動の直後に特有な、妙に熱に浮かされたような感覚は消えなかった。この勢いでやれることをやってしまおう。そう思った僕はそのまま、王宮のライトアップを見に行くことにした。
 サンダルを履きかえて、ガイドブックの地図を頼りに川の彼岸の旧市街へと歩き出した。けれども、橋を渡り終えようとしたその時、僕を追い越した1台のバスを見て、僕は我に帰った。
バスは、王宮で記念撮影でもするのだろう、ベトナムの民族衣装を着込んだ白人旅行者で一杯だったのだ。熱は一気に冷めた。王宮はやめにして、夕食にすることにした。気づけば、ひどく空腹だったのだ。

 夕食を終えてもまだ眠れそうになかったので、ホテルのはす向かいにあるバーで333ビールを飲むことにした。
奥のビリヤード台では白人旅行者とバーでウェイターをやっている10歳かそこらの少年が、ビール代を賭けて勝負していた。
程なくして、旅行者はキューを置き、帰り際に僕に、
「彼は強い。ギャンブラーだ。君も彼とは勝負しない方がいいよ」
という捨てゼリフを残して、路地に消えていった。少年とはいえ、毎晩、どこかの旅行者と撞いているのだろう。
 その少年は相手をなくして暇になったのだろう、僕の側に来て笑顔で言った。
「コイン持ってる?持ってるなら見せてよ」
やっぱり子供だ。外国のコインに興味があるのか。そう思った僕は財布から100円玉二枚と1円玉数枚を出して手のひらに載せた。
 と、その瞬間、少年はコインをひったくって、「くれ」と言う。うかつだった。見せるべきではなかった。昔、カシュガルのレストランで持っていた懐中時計の値段を聞かれるままに馬鹿正直に答えた瞬間にその場の空気が一変した、あの嫌な記憶が蘇った。
「1円玉を上げよう」
と言っても、100円玉がいいと言って聞かない。
 やはり最初から確信犯だったのだ。さらに数分後、しぶしぶコインを返したかに見えたが、巧妙に100円玉を1枚だけ隠して、知らないと言ってシラまで切る。
 結局コインは回収したけれども、この一件はひどく後味の悪いものになった。
 そして、その少年がずっと笑顔で全く悪びれる様子もなく、そして耳の遠いお婆さんをいたわりながらよく働いているという事実が、後味の悪さに拍車をかけた。
 観光地ではよくあることなのは分かっている。旅行者から少しでも多く金をふんだくってやろうとしている男だって、家に帰れば良き父親だということも、珍しいことではない。それは分かっている。
「また来てね」
と背中で少年が明るい声で叫んだが、僕は振り返らなかった。

 フエの王宮は、河を渡ってすぐの場所にあった。門をくぐって中に入ろうとした時、僕はひどく幻滅した。何と門に、ベトナム語で読めなかったがおそらく“フエ王宮”と書いているのだろうが、電飾付の文字が掲げられていたのだ。
いかにフランスの影響の下にアートを前面に出していても、こういうところでアジア特有の(特に中国か)センスの悪さが顔を出す。ラサのポタラ宮殿でも同じようなことがあった。世界遺産雲南省麗江なぞは、色々手を加えすぎて、ユネスコから異例のクレームが来たという話もきいたことがある。
 王宮自体も、果たして世界遺産に値するのか、那覇首里城並みに疑問だった。戦争による破壊がそれに起因するのは同じことではあるが、ユネスコは何を考えているのだろう?
世界遺産に登録されると補助金が出て、それが遺跡の保存に繋がるという図式は分かるのだが、これは一方で世界遺産登録の濫発を誘発し、それは結局、質の低下に直結する。それに、センスの悪い手の加え方をして、みすみす金の卵を産む鶏を殺してしまいかねないのがアジアだ。

 何かに追い立てられるかのように、14時にホイアンに向けて出発した。フエも時間と金をかけて郊外の帝廟にまで足を伸ばせば違った顔をのぞかせるだろうとは思っていたが、日程のことを考えるとどうしようもなかった。
移動手段には、バスを選択した。フエとホイアンの間にはベトナムを南北に分けるというハイバン峠があるのだが、バスだとかなりの高度まで登るが、列車ではそうもいかない。その点、バスはいい。そう思ったのだ。
けれども結局、ハイバン峠の一番高い場所を通った時に、急に雲が沸き起こって視界不良となり、期待していた一時停車も無く、期待外れに終わったのだが。
 バスはツーリストバスだったので、乗客は白人旅行者が殆どだった。家族連れのバックパッカーが居たのには驚いたが、このバスに限らず、ベトナムには他の東南アジアやインドなどでよく見かける旅慣れた(=小汚い)旅行者よりこざっぱりした旅行者が目立つように思われる。時期的な関係もあるかもしれないが、やはり異様だ。
 その理由のひとつとしては、他の公共交通機関の整備が十分でない一方で、全国にネットワークを巡らせたツアー・カフェだけが突出して発展しているので、様々なタイプの外国人旅行者が集中する傾向にあるためと思われる。実際、このバスではベトナム人ツーリストの姿も何人か見かけた。やはりローカルよりこちらのほうが良いらしい。
ホイアンに着いたのは、日もくれた宵の口だった。バスは、空港からハノイに着いたときのように、ゲストハウス巡りを始めたが、これには付き合っていられない。
 地図で現在地が確認できたので、僕はさっさとバスを降りて、2件目に入った、すぐ近くの小ぎれいなNgnyen Phongホテルに決めた。出来てからまだ1週間と言うだけあって、設備はなかなかのものだ。

 薄暗い。街灯が無いためだ。代わりに店先には赤い提灯がぶら下げられ、街は幻想的で、それでいてどこかノスタルジックな空気に包まれていた。
ただ、その空気はあくまでも観光のために作られたものでしかなく、一人旅の僕には少々退屈だったことも事実だ。
居心地が良いのか悪いのか分からない、洒落たレストランでの夕食では物足りなかったので、帰り道に、暗い路傍の焼き玉蜀黍をつまんだ。小さな台に腰を下ろして、道路の反対側の照明と旅行者で溢れる仕立て屋が軒を連ねる通りを眺めて初めて、僕は一息つくことができた。

 翌朝、ホイアンの街を歩いてみても、どうもしっくりこなかった。小さい街なので、1時間もすれば一巡りはできる。
ホイアンの街を流れる川にかかる橋からホイアンを眺めると、ここが水運の地だということがよく分かる。こう考えると、桃山時代に日本人が建てたと言われる来遠橋がこの街に存在するのも、驚くことではない。
けれども、あまりに街全体がツーリスティック一色だった。観光客のために整備された町並み、施設。ここまでだと、どうしてもやはり引いてしまう。観光地の弊害として、土産となるアートギャラリーなどのレベルも相当ひどい。
 昼前の静かなレストランでフルーツシェイクを飲みながら、通りを眺めてまったりするのが、この街での一番の過ごし方だと思える。
時間的な制約もあるが、ここも長居する場所ではない。
 僕は近くの旅行会社で、翌日のミーソン遺跡ツアーとホーチミンへのバスのチケットを手に入れた。ツーリストバスを避けるのなら、ダナンまで出て列車に乗るという方法もあるのだが、それだと14日までにホーチミンに着けない。そう、14日にはホーチミンに着かないと、最後の目的地、カントーまで行けないのだ。
 それにしても、ここは団体ツアーの白人観光客の多さが目を引く。ここがもし中国南部のどこかの街であったならば、ここは漢人で溢れかえっていただろう。白人も大きな顔はできない。
 しかし、ここは東南アジア。しかも旧植民地だ。白人にとってはコロニアルに“中華”の雰囲気味わえるところに、ホイアンの人気の理由があるのかもしれない。

 その日は昼食に招待されていた。ハノイ在住の知人からホイアンの知り合いの仕立て屋を紹介されていて、実は昨晩に一度顔を出したところ、今日の食事に招待されたのだ。 
 12時すぎ、旦那さんと僕が席に着くと食事が始まった。苦瓜に魚のパテを詰め込んだもの、菜っ葉、豚…。ベトナム家庭料理が並ぶ。
かいがいしく働く奥さんと妹を見ていて、僕は少しおかしかった。
奥さんは笑顔が素敵な人で、しかも英仏日の三ヶ国語をマスターしたやり手の経営者。接客から店のやりくりまで、従業員の女の子と二人でバリバリこなしている。
 一方で旦那さんはといえば、日本語はおろか英語もからっきしで、店の前を通る旅行者に「おーい」とか叫ぶくらいしか仕事をしていない。日中店ではあまり見かけないことを思えば、どうせどこかの喫茶店で話の華を咲かせているのだろう。実際、今僕の前に座っていても、物凄い笑顔で「食え」だの「うまいか」だのと、ベトナム語を単語で発するだけだ。それでも奥さんは旦那さんを立てて、夫婦仲は良さそうだし、それならそれでいいのだが。

 昼食を済ませて、街をふらふらしても、やはりどうにも気持ちが乗ってこない。しかし、今はベトナムにいる。
 ここほどツーリスティックな場所は見たことがない。タイもツーリスト産業は発展しているが、決定的に違うのはその基盤となる国の強さだ。タイにはツーリズムにスポイルされないだけのものがあるように見える。
それが何かと観念的にしか言えないが、それは旅人がその国の街に入ったときに、旅人に自分の居場所がその場所に無いと、そして自分の姿が何とみずぼらしいんだろうと思わせる何か、ということだと思う。
 “秘境”に“アドベンチャー”を求めて旅行者が現れる。一人歩いてできた道を、多くの旅行者が続き、ガイドブックの“秘境”となる。
そこにツーリズムが発生する。そして、ツーリズムに従属したいびつな経済形態が出来上がる。しかしそれを一概に否定はできない。そこから産まれる金は、その国にとってもその地域にとっても必要なものだからだ。
そしてその結果、“秘境”は消費される。ラオスのデット島でも、同じことを感じた。結局、何が残る?
 そこに来る旅行者もそうだ。何を求めているのか?雰囲気だけを味わい、そこでも自分の背負ってきたスタイルを押し通し、“秘境”を消費するのか?それがバックパッカーなのか?そうなのであれば、自分も含めてバックパッカーは“文化侵略者”ではないのか?
 そもそも、ここではないどこかへ行きたい、人とは違う所に行きたいと思って国をでてきたのに、結局やっていることは何百万人もいるバックパッカーと同じだ。地域に属さない通過する人としての“異人(Stranger)”というアイデンティティを獲得する一方で、“旅行者(バックパッカー)”という共同体への参画を求められる。
 つまるところ、旅とは何か?
 こう考えること自体をインテリ青年旅行者にありがちな苦悩と切り捨てて、旅に理由など必要ないと言い切る人もいる。それにも一理はある。しかし、自分の中でこの問いをリフレインする過程自体に意味が無いとは、僕は思わない。
 立松和平が、金子光晴の足跡を追ってバトゥ・パハを訪れた旅番組で、こんなことを言っていた。
「旅というのは、持て余す時間の中にいかに身を置くかということなんです」
 ホイアンという街で、僕は確かに時間を持て余していた。ダナンの地ビール、アジア・ビールの生を一杯3000ドンで飲ませる、市場の近くの小さなレストランで茫然として揺れる赤い提灯を見ていた。