旅の流儀:ホイアン〜ホーチミン

 ホイアン二日目、僕はミーソン遺跡ツアーに参加した。ツアーといっても、バスで遺跡の近くまでの送迎を行うだけのことだ。ホイアンからバスで1時間ばかりのところで、降ろされる。入場料を払い、そこからは無料のジープで遺跡まで行く。
遺跡に着くと、日本人ツアー客の姿も多かったが、驚いたことに、そのうちの一群は僕と同じフライトでベトナムへ入ったという。そういえば、ハノイの水上人形劇場でも一緒だった。聞けば、ほぼ同じ日程でここまで下ってきたという。もっとも、向こうは飛行機を使用していたが。
見ていると、日本人ツアー客は数少ないジープの荷台に強引に乗り込むことができずに、人を押しのけてでも我先に乗り込もうとするフランス人ツアー客の勢いに圧倒されて、やるせない顔をしている。待っていても、誰も親切に乗せてはくれない。そう、ここは日本ではないのだ。
 ミーソン遺跡はジープで一山越えた場所にある。大学時代の恩師は若かりし頃、どしゃ降りの中をここまで歩いて辿り着いたというが、この日も雨だった。
 遺跡自体は、世界遺産に登録されているとはいえ、それほど保存の手は入っていない。修復されている箇所も多いが、草生した建物はそのままだったりする。
 チャンパのレリーフの人々は線が太く、アンコールなどのクメールのその優美さとは対照的に、どちらかといえば無骨な印象を与える。そして、取り分けこの遺跡を特徴付けるのは、360度山々に囲まれた立地だろう。緑の中に点在する赤レンガの廃墟は、曇天によく映える。

 帰りのバスの中で、隣になったオージーの女性と話していて驚いた。彼女も僕と同い年で、やはり働いているのだが、年に1度は1月の休暇があるという。日本も1月とは言わないまでも、2週間くらいのリフレッシュ休暇があれば、と思ってしまう。
そして自然に僕の仕事の話に話題が変わり、僕が図書館で働いていると言うと、突然反対側の隣に座っていた夫婦の旦那が割り込んできた。曰く、俺もオージーでライブラリアンだとのこと。確かに、ビジネスマンでもバックパッカー風情でもなく、何者か分からない雰囲気だ。僕もこう見えるのだろうか。
 出発までの5時間近くの殆どを、僕はトゥボン川沿いのレストランの2階でぼんやりと過ごした。

 バスは漆黒の闇を駆ける。もちろん疾風のようにではなく、がたがたと苦しそうに鋼鉄の巨体を震わせながら、駆ける。
外が見えないので分からないが、相当な悪路なのだろう。ハノイの同級生が南部のバスには乗りたくないと言っていたのはこのためだったのかと、身を以って理解した。
移動に次ぐ移動。移動を重ねているうちに、移動すること自体が目的となってしまうような錯覚に陥る。旅が移動に特化していくことで、旅が純化していくような感覚に陥る。
 僕はこの感覚が、実は意外と好きだったりする。
 アンクル・サムの娘が、他の大柄な白人が文句も言わずにその長い手足を硬くて狭い椅子と椅子の間にたたんでいるのに、途中でベトナム人客が降りて空いた席に当然といった感じで進駐したおかげで、僕は一番前の座席2人分を独り占めすることができた。
そのおかげで、他の乗客より遥かにマシだったが、さすがに揺れがひどく、列車より眠れない。ウルムチからカシュガルまで丸二日間バスに乗り続けた、という僕のささやかな自負も、きれいに消し飛んでいた。
 ニャチャンには朝の8時に着いた。
ここでバスを乗り換えるから、1時間ほど待てと言われた。バスの乗客の大半はニャチャンで降りたから、今度はニャチャンから次の経由地への別の客を乗せていくのだろう。
 ニャチャンからのバスは急にグレードアップしてエアコン・リクライニングが付き、道も格段によくなった。刺すような日差しもようやく、来た。
ニャチャンからバスに乗り込んできたのは、神戸から来たという老人二人組のバックパッカーだった。その存在だけでも十分驚きだったが、話をしてみて更に驚かされた。
 震災をきっかけに店を閉め、そこから道楽で旅をしているだけかと思っていたら、どうやらバックパッカーの先駆けとも言うべきヒッピーの時代、70年代のゴアを知っているという。ということは、僕の大先輩なのだ。
しかもあの時代に長期旅行ができるということは、ヨーロッパで金を稼ぐか、日本で大金を得るかのどちらかだ。彼らの場合、それなりに品のある立ち居振る舞いをしていることと、神戸の家業と言うことを考えると、実家がそれなりに裕福だったのだろう。
 ムイネーというリゾート地で停まって、例のごとく乗客の入れ替えを行った折り、二人はきっちりと、しかしさりげなくバスの下の荷物入れに収納された荷物のチェックをしていた。どこの国の話を振っても、ああ、あそこは…と、実体験で返してくるところもそうだが、この動作が、何より彼らが旅慣れているという事実を雄弁に物語る。
 ムイネーまで、僕の隣には、少しでも安く上げて少しでも長く旅をしたいという、鬚もじゃの日本人がいたのだが、僕が二人に、
「彼は値段にばかりこだわって、時々話しが食い違うんですよねぇ。僕も仕事持って、多少お金ができたおかげで、旅行のスタイルが変わったのかもしれないけど」
と喋ったとき、片方の老人が言った。
「ああいう(経済的な)旅行を続けていると、段々と卑しくなるからねぇ」
 僕はハッとした。正にその通りだった。僕が彼に対して抱いた違和感はそこにあったのだ。
 僕が安さにこだわることに決定的に違和感を抱いたのは、チベットのギャンツェに行った時だった。
ランドクルーザーをシェアしてネパールへ向かう途中に立ち寄ったのだが、その街にはパンコルチョエデという大きな寺院があった。それなりに大きな寺院だが、その拝観料は、中国の観光地の外国人料金の例に漏れず、21元と些か高く感じられた。
それでも仕方なく払おうとしたら、連れの白人たちが何と、拝観料を値切りだしたのだ。彼らがこの冬の季節に寺院を訪れる旅行者も少ないから、と完全に寺院側の足元を見ていたのは明らかだった。道連れとしては楽しい奴らだったが、その時の姿は卑しいという以外の言葉では形容できない。
結局、5元まで下がった。その後の道中の人間関係を考えると、彼らへ抗議するように21元を払うことは躊躇されたし、やはり僕の中にも多少は安いほうが有難い、という気持ちがあったことも否定できない。けれども拝観料というのは、寺院への敬意を含めた己の志を納めることだし、今となっては後悔の気持ちでいっぱいだ。
 別に、ムイネーへのバスで隣り合わせた旅行者が、そこまで極端だったわけでもない。それに、僕もそういう旅行のスタイルを否定はしない。実際、自分もそうしてきた。今も、普通の旅行者と比べれば、まだまだそうだろう。
けれども、今の自分にそのスタイルはしっくりくるだろうか?
旅のスタイルや価値観というのは、自分の置かれた立場によって、変化していくものだという単純な事実に、僕はその一言で気づかされたのだ。

 宵の口にホーチミンに着いた。バスはホーチミンの“カオサン”とも言えるファングーラオ通りで止まった。そびえるビル、溢れるネオン、鳴り響く音楽、けたたましいモーター音、闊歩する旅行者。本当にここはハノイと同じ国なのかと思ってしまう。
バンコクのカオサン、それに続くカトマンドゥのタメルには及ぶべくもないが、さすがにホーチミンにファングーラオありと称されるだけのことはある。こういう場所は煩くてあまり好きではないが、やはりどこか心を浮き立たせるものがある。静かな場所からハードな移動を経て来た旅行者にとっては、尚更だ。
 けれども、ファングーラオ通りから入り組んだ細い路地に入ると、そこは旅行者のエリアではない。
デッキチェアにあられもない姿で寝そべるおじさんやおばさんがいたり、収支が取れているのか分からないような小さな雑貨屋があったり、そうかと思えば開け放たれた扉の向こうで家族が夕食中であったりする。
通りの周りは再開発エリアで、夜にもなれば光はなく、その中で蠢いている物の姿は、旅行者の目には写らない。それを抜ければ、再びネオンと人の海へ出る。そこはベトナムの人々のエリアだ。デパートに、ディスコに、カフェに、甘い物屋に、人々は二人乗りしたホンダで乗りつける。

この日は、ファングーラオと並行して走っているブイ・ビエン通りの安宿に荷物を降ろした。