メコンの匂い、再び


 この日は島の村祭りらしかった。
 起きぬけの島を歩いていると、確かに昨日までとは雰囲気が違う。どことなくソワソワしていて、心が浮き立つ感じだ。とある家に集まって料理に励む女たちや、一家総出で麺を作っている家もあった。隣のレストランのおっさんも、Mr.Manも、嬉しそうだった。ビエンチャンから何やら徳の高い坊さんも来ているらしい。祭りは夕方から、村外れの寺院で行われるということだった。

 昼過ぎ、船着場の傍のレストランで、客引きのおっさんが日本語の客引き言葉を教えてほしいというので、あれこれ適当なことを教えていたら、ナカサンからの船が着いた。降りてきたのは、日本人の夫婦で、二人で上海から下ってきたという。祭りに行くのにちょうど良い道連れができた。
 メコンで泳いで身体を動かしてから、Mr.Manの店で腹ごしらえすることにした。Mr.Manに明日、この島を出ていくことを告げると、
「おまえはきっとまたこの島に来ることになる。待っているぞ」
と言って抱擁してくれた。彼のいかつい顔をした息子も顔をくしゃくしゃにしながら、固く手を握りしめてくれた。そして、最後に、家族全員から一本ずつ白い糸を左の手首に巻いてもらった。ラオスでは、遠くへ旅立つ人の幸運を祈って、こうするのだという。たった数日しかいなかったのだけれど、胸がいっぱいになった。

 いよいよ祭りが始まったらしい。遠くから音楽が流れてきた。
 Mr.Manの店の裏手から島の中の方に折れて歩いていくと、会場となっている寺院まではものの10分で到着する。僕は6時過ぎに着いたのだけれど、ちょっと早すぎたらしく、店もまだ勢ぞろいというわけでもなさそうだったし、人もまばらだった。ビールをひっかけながら時間をつぶしていたら、少し雨が降ってきた。祭りもまだしばらく盛り上がらなさそうだったので、バンガロー近くのレストランで、今日着いた日本人夫婦の旦那さんと呑み直すことにした。
 彼らがこれまで辿ってきた旅を肴に、いい気になってグラスを重ねていたら、いつしか8時をまわっていた。旦那さんのほうはもうフラフラに酔っぱらってしまっていて、「もう寝る」という。ということで、僕一人で再び祭りの会場へと向かった。
 祭りは、先ほどとは打って変わって大盛況だった。射的や賭博(大人用と子ども用に分かれている)から、ビデオ上映、生演奏のダンスまで、何でもありだ。面白いのは、屋台の主や賭博の胴元など、金稼ぎに走っているのがほとんど顔見知りの村人だろいうこと。隣のレストランのおっさんも、今夜はここで出張営業していた。一昔前の縁日と町内会のイベントの中間といった雰囲気とでも言おうか。旅行者もけっこう集まっていて、顔見知りと盃を交わすもよし、地元の女の子とダンスするもよし。
 そんな感じで楽しんでいると、気づけば深夜になっていた。島で仲良くなった人たちの大半とここで別れの挨拶を済ませた。明日は朝が早いのだ。まだまだ盛り上がる祭りの盛り上がりを背に真っ暗闇のあぜ道を歩いていると、もうここには戻れない気がして、もう取り返しがつかないような気がして、急にぐっと来た。
 この島にいたのは、ものの数日だったけれど、これまでに経験したことのないような心穏やかな日々を過ごすことができた。友人もいたし、馴染みの店もあった。この島を再び訪れる日が来るのかどうか、それは分からない。けれども、いつか訪れたとしても、その時にはこの島は変わってしまっているだろう。そういう意味では、二度と戻ることができない。そう思うと、涙が出た。
 デット島最後の夜は、遠くに聞こえる祭り囃子を子守唄にしながら、眠りに落ちた。

##########

 翌朝まだ陽が昇りきらないうちに、アンソニーや他にこの島を出る旅行者たちとボートをシェアして、ナカサンへ出た。それから、パクセー、ウボン・ラチャタニと面白いようにバスや列車が繋がり、その日のうちにコラートまで移動した。その途中、一人また一人と別のルートへと脱落していき、コラートでは一人で駅の近くの安宿にバックパックを下ろした。
 昨日までとはあまりに落差のある賑やかなタイの街に、僕は言いようのない寂しさを感じていた。しかし、それを共有できる旅行者もここにはいない。ニューハーフのお姉さんと肩を並べてココナッツミルクのデザートをつつきながら、暗い街を眺めていた。
 その後、ピマーイ、サメット島と旅を続けたが、ラオスの時のような感覚が戻ることはなかった。ピマーイの遺跡とワット・プーを比べることや、デット島とサメット島を比べていたのかもしれないけれど、旅の幻影を抱えたまま旅を続けることほど辛いことはない。
 数日後、バンコクのバスターミナルに降り立った。迎えに来てくれていた親戚のおじさんの車に乗り込んだその時、おじさんが言った。
「おまえ、匂うぞー」
 それは、メコンの匂いだと思った。