メコンに抱かれて


 デット島では、朝日とともに目が覚めた。
 全くの自由な時間だ。暇にまかせて散歩し、気に入った木蔭を見つけては文庫本を開き、顔見知りと会えばカフェでお喋りし、疲れたら昼寝する。脳みそが溶けていくのが、自分でもわかる。

 その日の午後は、コーン・パペンの滝に行くことになっていた。昨夜、Mr.Manの店で一緒になったイギリス人のトムとその彼女のノラ、そしてアンソニーとボートをシェアする約束をしていたのだ。もちろん、隣のレストランのおっさんにお願いしていた。
 約束の15時をが近付いてきて相棒のカンボジア人もやってきたところで、おっさんがそわそわしだした。僕以外の3人組が一向に姿を見せないからだ。案外、ドタキャンする旅行者が多いのかもしれない。とは言え、彼らが時間に余裕をもって来るようなタイプではないのは、見るからに分かり切ったことだったので、僕としてはどうでもよかったのだが、生活のかかったおっさんだとそうはいかない。結局、僕が迎えに行かされた。
 案の定、3人はMr.Manのレストランで談笑していた。俺がおっさんの言葉を伝えると、
「OK。飯を食うから待っててくれ」
とトムはおもむろにメニューを取りだした。さすがの僕もここまでとは想像していなかったので、呆気にとられて見守るより他になかった。結局、ボートに乗り込んだのは15時30分を過ぎていた。
 コーンパペンの滝へは、ボートで40分、そこから歩いて20分程度。3人と色々と話しながらの道中は楽しいものだった。トムとノラはイギリスで音楽映像の仕事をしていて、貯まった金でオーストラリアと東南アジアを旅しているという。アンソニーは、大学を卒業して何となく旅をしているという。いずれも、1,2年の予定ということだった。みんな色々と事情があるようだ。
 さて、肝心のコーンパペンの滝は思っていた以上の大迫力だった。メコンの水が身じろぎもせず、落ちていく。昨日のソンパミットとは比べものにならない。しかも、滝壺の近くまで寄れるのだ。こんな大河にこんな大きな滝があるというのが、信じられない。飛沫を浴びながらアンソニーに撮ってもらった記念写真は、残念ながら逆光で使い物にならなかったけれど、大満足だった。

 その日の夜、3人から「パーティー」があるから来ないかと誘われたので、アルコールランプ片手に、彼らのバンガローまで夜道を歩いていった。こう書くと何でもないように思われるかもしれないが、真っ暗な道をアルコールランプ(小学校の理科の実験で使ったようなやつだ)の火を消さないように、しかも裸足で歩くのは、それなりの技術と勇気を必要とする。まぁ、満月だったので、そんなに大層なものではなかったけれど。
 トムたちのバンガローで食事をとった後、一緒にパーティーとやらの会場に向かった。
 そこは、数軒先のバンガローのメコン沿いの庭だった。何でも、ここに3年も住んでいたフランス人のおっさんがついに島を離れるというので、そのお別れだという。
 僕たちが到着した時には、宴もたけなわといった様子で、みんな車座になりながら、ある者は地元のおっさんが弦楽器一本で奏でるトランス系ラオス・ミュージックにあわせて踊りくねり、ある者はアルコールをあおり語らう。そんな場だった。
 さすがに素面で輪の中に入ったり、見知らぬ旅行者に話しかけるのもちょっとハードルが高かったので、ノラや日本での英語教師の経験のあるピーターとシャロンカップルと話しながら様子を見ることにした。
 ピーターとシャロンは、日本で稼いだ金で旅をしているという。今後はどうするのと尋ねたとき、二人の意見は微妙に食い違っていた。第二の故郷が見つかるまで旅を続けるというピーターと、大学で勉強したいというシャロン。この二人は別れるだろうなぁとぼんやりと思っていたら、ピーターがからんできた。
「日本人はみんな旅の期間が短すぎる。おまえもそうだけど、だいたい1か月がいいところじゃないか」
 確かに、日本人の旅行者は(特にこの時期)学生が多いから、どうしても旅は休暇に限定されてしまうので、結果としてそうなりがちだ。一方で、欧米の旅行者の場合、その大半は1年以上の期間を設定している人が多かったように思う。国によって旅に対する考え方も違うだろうし、また少しドロップアウトした者に対するその国の社会の寛容さの度合も違うだろうから、今さら僕が「何で日本に生まれたんだろう」と残念がってもどうにもならない。だから、ピーターの皮肉を込めた意見には何も反論しなかった。しかし、こう付け加えておいた。
「長けりゃいいってもんでもないやろ?」
 パーティーは、満天の星空の下、深夜まで続いた。遠く離れた日本では、今日が僕の大学の卒業式のはずだった。

 翌日、目を覚ますと、身体がだるかった。何もする気が起きない。今まで以上に脳みそが溶けていく気がした。
 朝から島を歩き、夕方にメコンで水浴びして汗を流してからMr.Manの店で賑やかに晩飯を食い、その後はバンガローの隣のレストランで子どもたちの相手をしつつ読書。それで一日が過ぎていった。
 すでに書いたように、僕のバンガローはハンモックがないので旅行者から敬遠されがちな分、静かだ。隣のレストランも、閑古鳥が鳴きっぱなしだ。男たちは当然、暇を持て余す。道楽息子といった趣きのバンガローのオーナーはけっこう大きなステレオを持ってはいるが、電気を食うので、やたらにはかけられない。
 そこで、彼らはギターをかき鳴らす。と言っても、何か弾けるというわけではない。手に取ってポロロンと少しつま弾くと、それで終わりだ。ギター自体もかなり古くて、チューニングも怪しい。しかし、それが彼らにとっての唯一の娯楽品なのだ。
 うだるような昼下がりに、更けゆく夜に、彼らはまたギターを取り出すのだ。