メコンの光:カントー〜ホーチミン

 遂に来た。旅に没入していくための通過儀礼(もう終わりかけてるが)。そう、下痢だ。カントー行きのローカルバスの中で日本人が一人、脂汗をかいて悶えている。

 朝から嫌な予感はしていた。
七時にチェックアウトして、テダム通りの路傍の定食屋でぶっかけご飯を食べていたのだが、どうも腹具合がすっきりしなかったのだ。その時は、昨晩呑みすぎたかな、くらいにしか思っていなかった。
テダムの側のベンタインバスターミナルからミエンタイバスターミナルまで路線バスに乗り、そこでカントー行きのバスに乗りこんだ。1時間ほど待って、10時過ぎにバスは走り出した。
そして、どうやら無事にカントーまで辿り着けそうもないと分かったのは、バスがホーチミンを出て1時間ばかりした頃だった。
 もう限界。車掌のおばさんに訴えた。バスは、街外れの野原の前で急停車した。

 カントーに至る道は、メコンの支流によって二度、分断されている。一度目の断絶には大きな吊り橋が架かっているのだが、二度目の断絶はフェリーにバスごと乗って横断することになる。
 そう、メコンなのだ。今回の旅の目的を、僕はメコンを見ることに置いていた。
初めてメコンを見たのはタイのチェンセーンだった。僕はメコンの朝靄から昇る朝日に心を奪われ、三日もその街に滞在した。
二度目はラオス。ルアンパバンの茶色く濁った水は、シーパンドンまで下ると、空を映して時間によってその色を変化させていく深い緑になった。僕は電気も水道もない島で、メコンに抱かれた四日間を過ごした。三度目はプノンペン。ここまで来ると、ベトナムにあるメコンの河口を見なければいけないような気になった。
 そして、僕は今、メコンに四たび、会おうとしている。メコンを巡る旅に一つの区切りを着けるために。
ホーチミンからメコンツアーはたくさん出ているが、大体はミトーまでだ。僕は倍の5時間かかるカントーまで行くつもりだった。そこには、水上マーケットがあるという。メコンの上のマーケット。これは見てみなければならない。

 1時過ぎに、カントーのバスターミナルに到着した。久々に外国人一人なんていうバスに揺られて、僕は少し気分が盛り上がってきていた。その勢いを駆って、バイクタクシーで以って、河のそばの安ホテルに移動した。
 連れて行かれた安ホテルは中国系の宿、つまり旅社で、当然汚い。しかしカントーの名物、銀色のホーチミンおじさんのすぐ裏手にあるというロケーションもさることながら、何よりもベランダ・ホットシャワー付きで6$という条件の良さがあれば、ここを選ばない手はない。

 洗濯を済ませて、少しベランダに腰掛けて休息を取ってから、レセプションに降りた。二日後の飛行機でホーチミンを発つことになっていたので、翌日にはここを出なければならない。情報を得ようと思ったのだ。
 ところが、予想以上に話は早く進んだ。レセプションにいた若い女性は、英語が上手く、また仕事が速かったのだ。
そして、五分後には、僕は翌日1時発のバスのチケットを手に入れ、翌日朝のメコンクルーズの予約を済ませていた。
 その女性が親切で、喋りやすかったのに甘えて、僕は更にお願いしてみることにした。
「下痢がひどくて・・・。何とかならないかな?」
「ちょっと待ってて」
 そう言って彼女が隣のレストランから持ってきたのは、ブッラクのコーヒーとレモンと、そしてタイガーバームだった。
「コーヒーにレモンを絞って、それを飲むの。そしてタイガーバームをおなかに塗って。そう。飲むの!」
 僕はその勢いに押されて、素直に右手でコーヒーカップを持ち、左手でTシャツを捲り上げて、腹を出した。
 僕はかなり後悔した。予想通りの何とも言えない苦い味。腹はタイガーバームのお蔭ですーっとしている。そして仕上げに、焼きバナナを食べろという。こんなので大丈夫なのだろうか?
 ところが、意外にもと言うべきか、さすがにと言うべきか、夕食の時間には腹具合はすっかり落ち着いた。
僕はお礼かたがた、ホテルの前でおばさん達と――ホテルの前には従業員ともその知り合いともつかないおばさん達が終日タムロしていて、暇を持て余しているものだから、何やかやとかまってくれるのだ――隣のレストランから料理を取り寄せて、夕食をとった。
彼女たちは皆、カタコトの英語しか喋らないのだが、コミュニケーション上の障害の全てを笑顔(というより豪快な笑い)と、大きな身振り手振りで乗り切る。付き合ってられないよな、とでも言いたげな笑顔を浮かべて、隣のレストランの客引きの若者が僕を見ていたけれど、ここまで底抜けに明るいと気分も良かった。
 その輪に、レセプションで世話になった女性が加わってきた。そしていきなり、言い出した。
「昨日、世界で何が起こったのか知ってる?」
何だっていうんだ?ネットもチェックしてないし、知るわけないじゃないか。
「何てこと!昨日はバレンタインデーよ」
そう言われて、今日は2月15日だと気づいた。でも、それがどうした?
「どうしたじゃないわよ。チョコレートちょうだい!」
いやいや、日本では女の子がくれるものなんだ。関係ないよ。
ベトナムでは逆なの!ここはベトナムよ」
仕方ない。君には世話になったし、じゃあ明日ね。
「って、何でビール飲んでるの!?私の親切を無にするの?」
ごめんなさい。ついつい・・・。とにかく、明日ね。

 マーケットというのは、そもそも朝のものだ。それは水の上も陸の上も変わりない。僕を乗せたボートは6時にカントーを出発した。マーケットは8キロほど河を遡った場所で開かれるのだという。
 まだ薄暗い河を、ボートはゆっくり進んでいく。どうやら、曇りのようだ。日が顔を出したらしく、雲に淡い光の色が彩られ、周りが明るくなっていく
 その時、突然、東の空が赤紫色に染まった。そして、次第にその色は広がっていき、遂には川面も飲み込んだ。それはあまりに強烈な彩色だった。時間にすれば、5分もない位だっただろうか、やがてそれは淡い色になり、そして消えてしまった。
メコンが見せてくれた、最後の光。僕はこれで十分だと思った。

 僕が乗った船というのはかなりの小型で、エンジンも貧弱だった。そのためスピードはさっぱりで、溢れんばかりに野菜を積んだ船にもどんどん抜かれていく。
それでも、これでよかったと思った。のんびりできるし、何より客は一人。船頭のおばさんと、チョコレートを貰ってかなりご機嫌の、ガイドでもあるレセプション嬢。二人を侍従にした僕は、メコンの王様だった。
足を伸ばして、少し朝寝した頃、マーケットに着いた。
 Luc Besson の“5th Elemnt”という映画がある。僕はそのストーリーよりビジュアルが好きなのだが、その舞台の未来都市ではビルがどんどん高くなり、一般人の居住スペースからは地上は霞んで見えなくなっている。人々は空中を走る車に乗って移動するのだが、メコンで繰り広げられているマーケットの光景は正しくそれだった。
 水に野菜や果物などを積んだ船がひしめきあっている。その船が何を扱っているかは、その船の舳先に立てられた竿の先にぶら下げられたものを見れば分かる。人々は器用に自分の船を操り、目当ての船を横付けして商談を始める。そして、船と船とのわずかな隙間を縫っていくのが、麺や鶏飯の屋台船だ。
 かなりの活気だ。陸橋や大きな市場が出来て、かなりの比重がそちらに移ったという。けれども、バンコクの水上マーケットなどが観光用の名ばかりのものであるのに対して、ここのは生きている。つまりマーケットとして機能している。
 船が小さいので、マーケットの中にもどんどん入っていける。僕の姿に気づいた船の女たちが「あれをご覧。男前の旅行者がいるよ」と言っている、とレセプションの女性が言う。マーケットを遠巻きにして眺めているのは、ツアー会社が仕立てた大型スピードボートだ。僕の船を追い抜いていったやつだ。そういえば、さっき船でそっくり返っていた僕を物珍しげにカメラに収めていたっけ。

 ホテルに戻ってきたのは12時頃だった。シャワーを浴びて、昼食を取ると、もういい時間だった。おばさんたちに別れを告げて、バイクで街外れのバス会社まで乗せて行ってもらう。私営のバス会社の催行するホーチミン行きのバスに乗るのだ。
乗客はみなベトナム人だが、行きに乗ったローカルバスの3倍近い値段がするだけあって、身なりもそれなりに良い。しかし何より、エアコン付きというのが有難かった。
 ホーチミンについた頃には、もう日が暮れていた。ここのバイクの光と音の渦も、一日しか離れていなかっただけで、懐かしく思えてくるから不思議なものだ。
 一昨日と同じテダム6$の安ホテルにチェックインして、近くの食堂で遅い夕食をとっていたら、居合わせた中年の日本人旅行者から驚くべき情報をもたらされた。
 彼によると、先週、ラオスビエンチャンとルアンパバンを結ぶ国道13号線を走るバスを武装した人々が襲撃し、旅行者二名が犠牲になったという。恐らくは道沿いの(或いはもっと山奥の)貧しい人々の金品強奪を目的とした行動であったのだろう。観光が無いと立ち行かない国だし、実際に翌日にその道をバスで通った旅行者もいたというから、その国道が閉じられることはない。
しかし、僕は思い出していた。二年前に同じ道を通った時、バスにおもちゃの銃を向けて遊ぶ子供たちを見たことを。銃を担いだ男たちが普通にバスに乗り込むような土地では、それはあまりにもブラックな光景だった。
「あの子らが本物の銃を持つ日が来るのかな」
と、子供たちのあまりにも邪気の無い笑顔に感じた、漠然とした恐怖を紛らわそうと軽口を叩いた。あれがもし、本物だったなら、犠牲になったのは僕だったかもしれないのだ。
 
 ホーチミンには、東西交渉史に興味を持つ人間であれば、見ないわけには行かないブツがある。
紀元1世紀から6世紀にかけて、インドシナ半島南端に栄えた扶南王国の遺跡、メコンデルタ南部のオケオから発見されたローマ金貨がそれだ。現在は、歴史博物館のオケオ遺跡出土品展示コーナーに陳列されている。
 扶南はサンスクリット文化の影響を強く受けた王国で、“海のシルクロード”の要衝として古代南海貿易においてその果たすところの役割は大きなものであった。そのことを如実に物語るもの、それがこの金貨である。ベトナムはそういう場所でもある。

 また、ベトナムロバート・キャパが、地雷によってその命を奪われた場所でもある。僕はベトナムで彼の写真を見れば、その最後の仕事を、よりリアルに感じられそうな気がしていた。
  そもそも僕は写真にそんなに興味があるわけでもない。けれども去年、インドの旅を切り上げて帰るときの飛行機で読もうと思ったのが、キャパの『ちょっとピンぼけ』だった。空港で時間待ちをしていた時、向かいの席に座っていた女性が読んでいたのも同じ本だった。そして東京に着いて重いバックパックを持って最初に行ったのが、当時デパートでやっていたキャパ展だった。
 要は、僕はキャパに対して何か因縁めいたものを感じていたのだ。彼の写真を見ずには、ベトナムを離れることができない。そう思い込んでいた。
 キャパをはじめ、有名無名の戦争写真家のその生命の精華は、戦争博物館に陳列されている。そこで並べられた写真を見ていて、僕は驚いた。
キャパの写真が、他の写真家の写真と比べて負けているのだ。
 確かに、上手く切り取ったなと思わせるものや、そこに目を付けるかと唸らせられることもある。けれども、他の写真家が、使命感や野心をギラギラさせて、その一瞬一瞬を切り取っていったという執念というものが迫ってくるのに対して、やはりキャパは弱いのだ。
 キャパは戦争写真で名を売ったが、戦争を嫌悪していたという。インドシナに行く前、「俺はバカだ。どうしてまた戦争になんて行くのだろう」という言葉を残していったという。
 これは嫌悪する戦争に、仕事のためとはいえ行かなくてはならない状況に追い込まれた自分を自嘲するようにも取れるが、僕は違うと思う。恐らくは、戦争に行けば、平時には得られなかった“感覚”を再び得られると期待する自分に向けた、自嘲の言葉だったと思うのだ。
 しかし、今僕の前にある写真には、ノルマンディーやスペインでのような力が無い。僕は、キャパの中で、既に“戦争”は終わっていたのではないかと思う。インドシナでのキャパは空虚だったのではないか?得られるはずのものがそこに無かったのだから。
もちろん、全く無かったとは言わない。けれども、彼が期待した程のものが彼に押し寄せてくることは無かったのだろうと思う。そのことは、何より目の前の写真が物語っている。

 ふと我に帰って、自分の中にある考えが自然と湧き上がってくるのに気づいた。キャパにとっての戦争は、僕にとっての旅でもあるのではないだろうか、と。