ボッタクリ天国


 嵐の翌朝、まだ暗いうちから荷造りをしてホテルの外に出るとトゥクトゥクの運転手が満面の笑みを浮かべて待機していた。頼んでいたわけでもないのに用意周到で、ご苦労なことだ。
 そして、予想通りバスステーションまで10000キップとあり得ない値段を吹っかけてきた。昨日ここまで来たときの倍の値段だ。時間が時間だけに向こうも強気で、どれだけ値切っても8000キップにしかならない。バスの時間まではまだまだあったので、こちらも長期戦を決め込むことにした。
「もうすぐ友達のオージーが来るから待っててくれ。人数が増えたらもう少しまけてくれるだろ?」
 どっかりと入口の階段に腰を下ろすと、相手は急にソワソワしだして、「まだか?何なら起こしに行ってくれよ」としきりに僕をせっついてきた。実は、僕にはそんなアテも知り合いも全なくて、完全に口からの出まかせだったけれど、
「どうせパクセー行きで朝早いのは一本しかないから、誰か一人くらいはそれに乗りに下りてくるだろう。そうしたらシェアを持ちかければいい」
と気楽に構えていたのだ。
 そして、待つこと20分。狙い通り一組のカップルが下りてきた。早速シェアを持ちかけ、一人6000キップで交渉が成立した。ちなみに、まったくの偶然だったのだが、そのカップルはオージーだった。
 バスステーションで、これからベトナムのダナンへ抜ける国際バスに乗るという二人と別れ、僕はチケット売り場へ行った。パクセーまでは20000キップだと言うので両替がてら20ドル札を出したら、何とお釣りはたったの200バーツだった。ラオス・キップで払うより米ドルやタイ・バーツで支払う方がかなりレートが悪いというのは聞いていたが、これはいくらなんでもひどすぎる。残念というか迂闊なことにキップの持ち合わせがなかったので、まだレートがましなバーツで支払ったが、それでも150バーツも取られてしまった。その時、僕の頭にはある言葉がリフレインしていた。
「Never trust anyone in Lao!!」

 今回のバスは、再びオンボロだった。おまけに席とりという概念もあまり無さそうな気がしたので、僕は後ろの席を死守することにした。実際、荷物を置いて朝食を仕入れに行ってしまったアメリカ人女性の二人組は、モノの見事に行商のおばあさんによってその荷物を押しのけられてしまい、気の毒にも帰る席を失ってしまった。困った顔をして立ち尽くす彼女たちに、僕はこう言ったものだ。これがラオスなんだよ、と。
 サバナケット〜パクセー間の道路は平地ではあったものの、ビエンチャンルアンパバーン間以上に厳しかった。道路は舗装工事の真っ最中(しかも、例によってのんびりやるものだから、いつ終わるのか果てしない)なので、バスは側道を通行せざるを得ない。そして、その側道というのが凸凹で、おまけに数日前までの雨のせいでひどいぬかるみになっていて、快調に走ることなど到底かなわない。スピードは自転車なみだし、バスは窪みに入り込むたびに転倒せんばかりに斜めになり、そして時にはぬかるみの中で立ち往生してしまう。
 川らしきところには、日本のODAで作った橋がかかっていたりすが、道路の高さと橋の高さが、ひどい時は1メートル以上合っておらず、(道路の舗装さえ終われば役に立つのかもしれないが)少なくとも今は全く役に立たない。結局、バスは橋に当たるたびに、それを避けるために側道に入り、また下りることになる。雨の少ないこの時季ならまだしも、雨季にはどうするのだろう。僕は2日のうちに、ODAの正負両面をわが身をもって体験したわけだ。
 そんなわけで、地図では前日の走行距離の半分くらいの距離に見えたこのバス旅は、結局8時間もかかってしまった。そして、悪いことは重なる。
 キップの手持ちがほとんどなかった僕は、パクセーのバスステーションでトゥクトゥクの客引きが「銀行に寄って両替する時間も込みで3000キップでOK」と言うので、何度もそのことを確認してから乗り込んだ。そして、街の中心に近い銀行の前で一度下りて両替してからトゥクトゥクに戻ると、運転手が10000キップも払えと言い出した。
 さすがに僕も頭にきて、「3000キップって言ったやろ」と食ってかかると、運転手はぬけぬけと「待ってやったんだから払え」とシラを切った。おまけに、同乗の家族づれもおっさんも、憐みの表情を浮かべながら僕を見る自分の子ども存在を忘れたのか、「早く払え、待ってやってるんだから」というニュアンスの言葉を下品な口調でたたみかけてきた。
 しばらくゴネていたが、次第にどうでもよくなって、10000キップをたたきつけて、その場を立ち去った。「サンキュー、ミスター」という声が背中から追いかけてきた。日本に帰れば缶ジュース1本の値段だとは分かっていたが、僕は側のフェンスを蹴とばした。

 パクセーもこれといった特徴のない地方都市だった。船着場の横のマーケットは比較的活力にあふれてはいたが、それでも「比較的」でしかない。けれども、それより僕のようなバックパッカ―にとって辛いのは、そのゲストハウスの少なさだろう。安いところはたいがい満室で、この日は中級ホテルにせざるを得なかった。もっとも、値段とサービスの釣り合いはとれていたので、それはそれで悪くなかったのだけれど。
 気を取り直して、近くのラーメン屋で激ウマのラーメン(この街は華僑が多い)と豆乳の晩御飯をとった後、久々にネットカフェに入ってみた。しかし、1分2000キップとルアンパバーンビエンチャンの10倍の値段の上に、日本語は30分以上の設定作業が必要というあり得ない状況だったので、そこまでの執着心もなかったこともあって何もせずにホテルに戻ってふて寝した。

 翌朝は、パクセーで唯一僕を満足させてくれたラーメン屋でサービスの冷茶をガブ飲みしながらの朝食を済ませてから、トゥクトゥクを拾ってバスステーションに向かった。久々に真っ当な運転手に当たったようで、わざわざチャンパサック行きのバスステーションまで連れて行ってくれた(当たり前だけど)。途中、もう一人の客を国道から外れた集落まで送った際に、赤色の土埃まみれになったことも恨むまい。
 さて、今日の目的であるチャンパサックは、ラオス南部最大のクメール遺跡ワット・プーを擁する、メコン西岸の小さな村である。ここへはパクセーから船で行くという手もあるが、それだと丸一日がかりになってしまう。バスだと、パクセーから13号を少し南下してから右に折れてメコンの渡し場まで行き、そこからバスごと船に乗って対岸に渡ると、チャンパっさくまではもうすぐだ。
 そんなわけで今回はバスにしたのだが、僕が乗り込んだのは、ラオス名物のトラック・バスだった。トラックの荷台に客席を組んで屋根を付けただけのもので、屋根は異様に低くて乗客の忍耐が試される仕様だ(僕は途中から、バスの後部のステップに立つことにした)。そして、このバスには何でも積む。野菜からジュースなどのビン類、様々な雑貨まで。北部と同様、南部でもバスは単なる交通機関ではないようだ。人々の生活を支える、それ以上の存在のようだ。客も様々で、学生から銃を担いだおっさん、自転車ごと強引に乗り込もうとするお兄さん、でっかい籠をかついだおばさんなど。ちなみに、旅行者は、僕とカナダ人のおっさんの二人だった。
そして、チャンパサックの街で、旅行者二人組は降ろされた。