犬は逝ってもバスは進む

 ビエンチャン行きのバスは、これまた7時出発と朝が早い。朝食代わりのフランスパン・サンドイッチを片手にバスに乗り込むと、一番前の席に、前の日にプーシーの丘であしらっていた小坊主が座っていた。より正確に言うと、この小坊主は僕の隣にいた日本人の女性ばかりに話しかけて、僕のことなどほとんど無視していたのだが。
 彼はそんなことはすっかり忘れてしまったかのような、満面の笑みを浮かべて、隣に座れという。なんでも、一か月ほどビエンチャンの寺に留学するらしい。せっかくなので言葉に甘えると、とたんに(想定の範囲内だけれど)「丘にいた女の子は?」とエロい顔をする。「一人旅だよ(バーカ)」と冷たく言い放つと、分かりやすくへこんでいた。

 そんな感じで始まった二度目のバスの旅には、残念ながら良い思い出がない。
 ルアンパバーンでまったりし過ぎたことや、何だかんだ言っても二度目の道は刺激が薄れるということもあるが、何より環境がまずかった。そもそも、バスのエンジンは運転席と一番前の席との間にあるわけだが、ラオスのそれはボロく、またその上にカバーをかぶせただけなので、その熱がムンムン伝わってきて耐えがたい体感温度になる。その上、昨日からの晴天のおかげで土も乾き、窓からはラオス名物?の土埃が問答無用で入ってくる。
 隣の小坊主も諦めがついたのか、何か気を遣ってお菓子をくれたり、また奥さん同伴の運転手は運転手で周りのお客さんとまるで十年来の友人かのように大盛り上がりで騒いだりして、こちらの精神状態さえ良ければ楽しめそうだったけれど、いかせんテンションは下がるばかり。おまけに途中からは狭いイスに明らかにキャパ超えの人数で座る羽目になり、正しく拷問のような9時間になってしまった。
 ビエンチャン市街に入る少し手前で、ちょっとした衝撃とともに「ケーン」という鋭い声がした。犬を轢いたらしかった。犬は逝ってしまったが、バスは進み続ける。僕の気分も"Dog Gone"。ルアンパバーン行きのバスで何かにキレ続けていた日本人もこんな感じだったのだろうか。

 ビエンチャンでは、前と同じ宿でお世話になることにした。けれども、さすがに前のメンバーは誰も残っていなかったし、街を包んでいた物々しい雰囲気は消えていた。
 メコンに沿って散歩しながら、そして晩御飯を頬張りながら、考えた。この街で2,3日ゆっくりするのも悪くない。しかし、ルアンパバーンでたるみ切った気持ちに喝を入れるには、もう少し自分を追い込んだ方がいい。そのためには、メコンに沿って南進するしかない。となると、次の目的地はライス第二の都市サバナケットだ。

 そんなわけで翌日の早朝、タラート・サオにあるバスステーションからサバナケット行きのバスに乗り込んだ。
 バスは、何と日本のODAで導入されたもの(しかしHYUNDAI製)で、客の風体とのアンバランスなほどに、新しくて立派なものだった。僕は今までになく自分の祖国に感謝した。しかも、さらに嬉しいことに、ビエンチャンからサバナケットまでの道路は完全舗装だった。ルアンパバーンまでの道路と同じ国道とはとても思えない。この国の経済という意味では、ビエンチャン〜サバナケット間の動脈の方がより重要なのだろうか(道路も敷設しやすいけど)。
 乗客はというと、白人のカップル2組の他は、みんなラオス人だた。バスは中・短距離の客を拾っては下ろすというのを繰り返していくのだが、運転手はよほどこのバスでこの道路を疾走するのが嬉しいのだろうか、かなりのスピードを出し、そしてブレーキは必要以上に急に踏むので、僕は冷や冷やしっぱなしだった。ラオスというのは、道路が良くても悪くても冷や冷やさせる国らしい。

 サバナケットには3時過ぎに到着した。バスステーションからホテルまでバスで仲良くなった白人カップル(どうでもいいけど、欧米人はなぜこんなにカップルが多いのか!)とトゥクトゥクをシェアした。某ガイドブックには「この街で一番安い」と断言されていたので行ってみたのだが、残念ながら値段は倍になっていた。某ガイドブックは最新版の筈だったのだけれど、まぁよくあることだ。フロントのおっさんに言わせると、それでも「この街で一番安い」というのが。
 サバナケットのように観光地でもない街では、観光客向けのインフラも大して整っていないので、どうしてもこういった古びた中級ホテルのようなところに泊まらざるを得ない。ただ、それにしても部屋があまりにもボロい。おまけにトイレまで壊れている。
 ただ一泊するだけの宿に悪態をついても始まらないので、街を歩いてみた。その日は日曜日ということで、店はほとんど閉まっていて、男たちはテレビのある喫茶店などに集まって、サッカーやらムエタイやらの中継に熱中している。街外れのスタジアムでは、お粗末な草サッカーが行われていた。
 週末の昼下がりの、のどかな町並みが続く。ネットカフェも土産物屋も見当たらない。唯一、少し活気を見せていたのは、メコンの対岸のムクダハンと結ばれる、フェリーの渡し場兼イミグレーションだった。船は、毎度あふれんばかりのヒトやモノを載せてメコンを往復していた。イミグレーションの傍らには、越境商人たちがタイから持ち込んだ、様々な日用品や雑貨品をゴザいっぱいに広げている。ただ、国境の街だけが醸し出すはずの、あのいかがわしさはほとんど感じられなかったけれど。
 そんなサバナケットの、某ガイドブックが独断と偏見で選ぶ名物は、メコンの土手にイスとテーブルを並べ、そこでぬるいビア・ラーオの瓶を傾けることらしい。確かに、ここだと夕陽もきれいに見れるし、僕としてもそれを試したいのは山々だった。けれども、ルアンパバーンでたるんだ自分に気合いを入れるべく、(今となってはなぜか分からないのだけれど)一人禁酒宣言をしていたので、そのときはお気に入りの豆乳ジュースでメコンの夕陽に乾杯した。

 その晩、サバナケットは荒れに荒れた。雷鳴が轟き、雨が横殴りに軋む窓を叩いた。その上、停電。稲妻が瞬間的に部屋を照射するのを頼りに、僕は何とか寝支度をした。上の階では、おそらくタイからモノをたんまり仕入れてきて、そしてこれから各地へ散らばって一儲けしようとしているに違いない商人の一団が大騒ぎしていた。