国境の雨

 「あぁ、この匂い」
 戦前、東南アジアを彷徨した詩人、金子光晴が二度目にマレー半島に降り立ったときの言葉である。
 確かに東南アジアには、肌にまとわりつくような独特の湿感があって、そしてそれは日本にはない東南アジア固有の“匂い”のようなものを伴うものだ。金子が言わんとする感覚は、一度彼の地を訪れたものでなければいくら言葉を並べても感覚として分かってもらえないと思う。
そして、飛行機を降りて東南アジアの土を踏みしめた瞬間に彼をとらえるその感覚は、それが好きなものにとっては、この上も無く心地良いものである。かく言う自分もその楽しみを期待する一人であって、今回の二度目のバンコク到着の瞬間にも、その感覚に襲われるのを楽しみにしていた。

 2001年3月11日、早朝。折からの異常気象で、暑期にもかかわらず、バンコクは雨だった。
 まだ薄暗く、裸電球の赤い光がまぶしいドンムアン空港駅で、重いバックパックを足元に置いて、僕はバンコクに向かう列車を待っていた。雨のせいで、明け方ということを差し引いても、気温は上がっていないようだ。
 それどころか、“雨は僕がずっと楽しみにしていた“匂い”まで奪ってしまっていた。
 やがて、朝もやの中から列車が出てきた。通勤客、行商のおばさんに旅行者。バンコクに向かう雑多な人々が荷物を持ち上げ、一斉に乗り込む準備を始めた。

 それにしても、再び列車に乗り込むまでに長い時間がかかってしまったものだ。
 マレー半島を縦断した前回の旅からもう2年も経っている。あの時はどんな思いを持って、列車を降りたのだろうか?今となっては思い出せない。
気づくと、以前は手書きだったドンムアン駅で発行される切符も、今ではコンピュータ発行となっている。何やら隔世の感だ。気のせいか、以前よりこざっぱりした格好をしている若者も多い気がする。
  そのためだろうか、どうにも体にしっくりこない。「旅」が始まったというのに、自分の中のスイッチが切り替わらない。2年間ずっと望んでいたものに再び出会っているのに、である。
 こういう時はひたすら移動するに限る。移動を重ねるうちに、旅に没入していくだろう。経験知として、何となく僕はそう思うことにした。

 今回の旅の目的は、ラオスメコンに沿って北から南へ縦断することだ。
2年前にタイ北部の田舎町チャンセーンから、メコンの向こうのラオスから上る朝日を見て、次はメコンに沈む夕日が見たくなった。そのためにはラオスに行かなれければならない。
「これは行ってみなければいけない」
僕は不思議な使命感に囚われた。およそ馬鹿げたことではあるけれど、それ以来、ラオスという国が僕の脳裏にまとわりついて離れなくなっていた。
 そして、2年が経った。その間に僕は大学院行きの切符を手にし、卒業旅行の行き先として、迷わずラオスを選んだ。
そもそも、ラオスに行くには幾つかの方法が考えられる。東南アジア大陸部の内陸国なのだから、当然国境の数だけ入国方法があるのだが、そのために要する時間と金を考えると選択肢はそうない。
まずバンコクに飛び、そこからまず夜行列車でタイ側の国境の街ノンカーイに行き、そしてメコンを渡ってラオスの首都ビエンチャンに入るのが、最も合理的な方法だ。
 事実、僕はそのルートを取った。

今回の旅のもう一つの目的であるロッブリーでの簡単な調査を終えた僕は、バンコクの街に出ることなく、そのまま18時半発のノンカーイ行きの列車に飛び乗った。
前日にチケットを取ってあったので、席は2等寝台だった。寝台車輌は長い列車の1輌でしかなく、それなりに入手困難なのは、前日に目の前で日本人旅行者が当日発の3等硬座席しか取れなかったことから分かっていたので、手を打っていたのだ。
2等は向かい合わせで2人の乗客が乗り、一人が上に、一人が下に寝る。旅行者、家族連れ、ビジネスマンと客層は様々だったが、僕の相席はビエンチャンに住むという、少し厳めしい顔の年老いた華人だった。
「若いの、何を読んどるのかね?」
『白鯨』って小説です。え、どんなかって?でっかい魚を獲る話です。
「“鯨”って何じゃね?ちょいと見せてみんしゃい」
え?いいけど分からないんじゃ・・・あっ、取った。じいさん、実はいい笑顔してるんだねぇ。
「うむ。よく分からないぞよ。ありがとう。お主、いい奴じゃな」
こんなどうでもいいやり取りが、英語と中国語と手話を交えてなされているうちに、やがて車掌がベッドメイクを始めた。まだ8時すぎだというのに。夜行列車の夜は早いのだ。
 やれやれ。ゆっくり上で本でも読むか、とベッドに上ると、向かいのベッドにはメガネをかけた丸刈り日本人が笑っていた。
「僕ねぇ、バンビエンに行くんすよ。ハッパっすよ。ハッパ。えっ、行かないんすか?信じられないなぁ」
僕は返す言葉が見つからず、自己紹介もそこそこにカーテンを閉めた。
後で知ったことだが、バンビエンは東南アジアでも有数の好き者のメッカだという。良質のガンジャが安値で手に入ることから、様々な国籍の旅行者が集まり、沈没するらしい。

 朝、車輌の後ろの洗面台で顔を洗って車窓に目をやると、僕の眼を赤褐色の大地が流れていくことに気づいた。
そして、程なく列車はノンカーイ駅に到着した。
 僕はラオスに入る前に、タイの田舎町でメコンから上る朝日を一度見てからラオスに入るか、いきなり国境を越えるか、かなり迷っていた。けれども、駅を出ると雨。これで決まった。
 駅の前にタムロしているトゥクトゥクに国境までの値段を聞いてみると100バーツだという。値切っても、足元を見られているのか、なかなか下がらない。かくなる上はシェアするしかない。僕は折りよく駅から出てきた一人の日本人女性と話をつけた。
 国境で作れる2週間のラオスビザが1000バーツ。その場でスタンプをもらい、ラオスに入る。ものの30分とかからない。少し前にラオスに行った友人によると、タイ〜ラオスの国境越えは、この程度の簡単なものだということだった。
 しかし、である。僕らは国境手前の旅行代理店で降ろされた。遅れて、夜行列車で見かけた他の旅行者も続々とやってくる。
「ビザ代は2200バーツ。さぁ払った、払った。バスは12時に出るよ」
集まって怪訝な顔をしている旅行者に、代理店のおかみさんが叫ぶ。
「ちょっと待てよ。どういうことだ?高いぞ。それに、個人では行けないのか?」
全員の思いを代弁して、ラオスとタイの間での雑貨の貿易を生業としているフランス人の二人組が抗議した。けれども、おかみは聞く耳を持たない。「決まりだから払え」の一点張りで、事情も何も語らない。釈然としないものを感じながらも、全員2200バーツを払うしかなかった。
 11時になって、パスポートを一括しておかみさんが出入国管理所に持っていき、僕らはバスに乗せられた、と思ったら、国境にかかる「タイ−ラオス友情の橋」を越えた瞬間に、下ろされた。どうやら、ツアーという形式を取らなければ入国できないらしい。
 そこからビザのスタンプを貰うのに、さらに1時間待たされた。
「1週間前来たときは1000バーツだったし、こんなに時間はかからなかった。俺は怒ってるんじゃない。ただ理由を知りたいだけなんだ」
と同じことを繰り返し、やり場の無い憤りを僕にぶつけていた例のフランス人の二人組は、国境からビエンチャンに向けてのソンテウ(荷台トラック)に別々に乗ることになった別れ際に
「Never trust anyone in Lao!!」
と捨て台詞を残していった。

 結局、日本人で固まってしまった。ソンテウに揺られているのは7人。僕がトゥクトゥクのシェアを持ちかけた女性、同じく女性一人旅のTさん、(偶然にも)僕と同じ大学の2人組、寝台でどうしようもない話をしてきた2人組に、そして僕。
 正直、僕は煩わしかった。何故、日本人ばかりでつるまなければならないのだろう?それに他のメンツはともかく、早稲田のメガネはどうも苦手だった。みんなで揃ってビエンチャンの中心と思しきナンプ広場で車を降り、ぞろぞろと安宿を探さなければいけない羽目になるとは・・・
 国境でのトラブルを裏付けるかのように、ビエンチャン市内も銃を担いだ兵士がウロウロしていたりして、緊迫した空気が張り詰めていた。後で分かったことだが、折りしもラオスの与党である社会党(と言っても一党独裁体制だが)の記念式典が行われるとかで、社会主義各国の首脳が続々とビエンチャン入りしているところだという。北部国境などでは、国境を一時封鎖した箇所もあったというから、或いはこのタイミングで入国できたことも、ついていたのかもしれない。

 宿を決めて一息ついた4時頃、ラオス人の友人に会いに行くという同級生2人組と、タラート・サオにサンダルを買いに行くことにした僕を除く4人が、郊外にあるブッダ・パークに出かけていった。慣れない街で、しかも夕方近くになってから動くのは、どう考えても得策ではない。そうは感じたけれど、僕は彼らに意見を述べる立場にもないし、僕は僕でサンダルを買うことが、季節外れの雨でダメになってしまったスニーカーしか持たない事情を考えると、焦眉の関心事だった。6時にバス停近くの交番で待ち合わせることにして、僕はようやく念願の一人の時間を手に入れた。
 タラート・サオは、朝市という意味らしい。道理で僕が行った時間帯は、店じまいの仕度をしている店ばかりだったわけだ。明日にはルアンパバーンに行く予定だった僕は、案の定足元を見られて、サンダル一足に7ドルも払う羽目になってしまった。しかも、タラート・サオでぶらぶらしていようという目論見も外され、僕は薄暮ビエンチャンに放り出されてしまった。
 それでもメコン川沿いを散歩したり、どうやらこの街では一番人気のあるらしい中学生位の子供たちのバスケの試合を仕事帰りのおっさん達と眺めたりしているうちに、6時になった。
 約束の場所に時間通りに着いた僕は交番の巡査とお喋りして時間をつぶしていたが、この時間ともなると、さすがに辺りは暗くなってきた。それでも彼らは帰ってこなかった。
 30分ばかり待ったところで、さすがに僕も心配になってきた。何かあったんじゃないだろうか。あまり旅慣れた感じの奴らではなかったし、変なことに巻き込まれていなければいいが・・・
 しかしこの状況で、僕に何ができるだろう?それに、お互い通りすがりの旅行者。所詮は自分に関係のないこと。
 多少後ろめたい気持ちもあったが、僕は結局、暇つぶしに付き合ってくれた巡査に、日本人4人組を見かけたら渡してくれ、というメモを託してゲストハウスに戻った。途中、飲み屋の酔っ払いに「まぁ飲んでいきなよ」とか言われて、調子良く氷で冷えたビア・ラーオをあおったけれど、のどごしは、あまり気持ちいいものではなかった。
 ホテルの前のインターネット・カフェでメールを打っていたら、僕の背中を叩く人間がいた。誰だろう?振り返った視線の先にいたのは、Tさんだった。
「ごめん。メモ見たよ。待たせちゃったみたいだね。行ったはいいけど帰りのバスが無くなってさぁ・・・」
何とか僕を待たせてしまったことを少しでも詫びようと、彼女は長々とブッダ・パークでの苦労を喋っていたが、僕は曖昧な笑顔を浮かべて「よかったねぇ」と言うのがやっとだった。お詫びにみんなで晩御飯をご馳走するよ、と言ってくれたが、僕は
「俺はこういう時は遠慮しない人間やねん。ご馳走様」
とか何とか、ふざけて自分の中の後ろめたさを紛らわすのがやっとだった。