バトゥ・パハ

 クアラ・トレンガヌに戻ったのは12:00頃だった。B.S.の側のクーラーのきいたショッピングセンターの中のハンバーガーショップでチキンバーガーをほお張った。Kはクアンタンに行くという。僕はバトゥ・パハに行こうと思っていた。「お別れやな」「でもマラッカで会うかもな。あれ、とかって」2人とも次の次の目的地はマラッカなのだ。「じゃあ、マラッカで」Kは13:00のバスで出発した。
 僕のバスは夜8:00出発だった。バトゥ・パハへの直行便はないので、とりあえずジョホール・バル(JB)まで行ってみることにしたのだ。途中、休憩に寄った喫茶店で温かいテーを飲みながら、僕は旅の終わりが現実のものとなって迫ってきているのを感じていた。それまでは、こんなことを考える余裕も無かったが、とうとう来たかという感じだった。クラブをやめてきた程のことはあったと思ったし、もっと続けたいと思った。何もしなければいけないことが無いという旅の気楽さというやつが体にしみついていて、怖いと思う反面、気持ち良かった。シンガポールの友達には「14日にそっちへ行く」と言ってあったが、この約束が辛うじて僕を踏みとどまらせていた。
 6:00、JB着。1時間後、バトゥ・パハ行きのバスに乗り換える。9:00前着。戦前の詩人、金子光晴が愛した街だという。僕は彼のことなど、そんな人がいた、位のことしか知らなかったが、50年以上も前に東南亜細亜を放浪した奇特な日本人が、何故こんな何の名所も無い所が気に入ったのか、興味があったのだ。
 バトゥ・パハは本当に何も無い街だった。金子が旅装を解いたという日本人クラブの建物も、今は何の変哲もない中国風の建物になっていた。街自体大きくなかったし、旅行者、特にバックパッカーが殆ど来ないので、市内にはビジネスホテルしかなく、泣く泣くいつもの3倍近い26M$払ってしまった。本当ならこれでバトゥ・パハ嫌いになるところだが、この街は今までマレーシアで行ったどんな街にも無かった不思議な雰囲気があって、それが僕をひきつけた。僕は何時間も街をブラついた。
 この街は殆ど華人だった。それだ。この何か昏い活気の様なものの原因は。クアラ・トレンガヌのチャイナタウンには活気なんてカケラも無く、夕方ともなればゴーストタウンだったし、コタバルに至ってはチャイナタウンすらなかった。マレー半島の西側は華人が多い。特にこの街なんて90%以上華人じゃないか、と思う位だった。ここには観光地の賑わいではなく、純粋な商業の賑わいがあり、“生活臭”というのが最も強く感じられた。“何も無かった”というのは間違いだった。強い“生活臭”があった。もっとも、食事は主に、愛想の良いマレー系の店でとったが。