コタバル

 マレーシアの国境側の街はランタウ・パンジャンという舌のかみそうな名である。さすが国境側の街、バーツも使える。時計も一時間進ませなければいけない。バーツをマレーシアドル(M$)に替えた。レートは良くなかったが、これがないとバスには乗れない。それに、ここまでの2週間、ケチったおかげで、財布にはかなりの余裕が生まれていた。
 ランタウ・パンジャンからマレー半島東部の中心地、コタバルまで30分。鬱蒼としたジャングルの中に一本道をバスは抜けていった。途中、警官が乗り込んできて外国人旅行者全員にパスポートを出せ、と命令したのだが、僕のほかに7〜8人はいた旅行者1人1人をチェックしていったのに、何と僕には目もくれず通り過ぎ去ってしまった。ネタ的には少しオイシかったが、何か少し淋しかった。
 コタバルでバスを降りた瞬間に“マレーシア”を意識させられた。陽射しがタイの時とは比べものにならない程厳しかった。ジリジリと肌が焼かれる感じがした。行き交う人も殆どがマレー人だった(マレーシアでは華人の方がマレー人の方より多いのだが、半島東部に限れば、マレー人が圧倒的に多い)。
 コタバルはさほど大きな街でもなく、過しやすそうだった。物も豊富だった。もし、マレーシアがタイより劣るとすれば夜の7:00にはナイトバザールを残して全て閉ってしまう飲食店とコンビニの少なさだった。コタバル程の都市でもコンビ二が無いのだ。
 チェンマイのドミトリーで一緒だった限りなく怪しかった巨体の日本人が勧めていたDe999というG.H.に宿を定めた。値段(5M$。1M$=30円)やロケーションに何の問題も無かったが、結局、このG.H.の為に、3日程いるつもりだったコタバルと1日でお別れすることになってしまった。
このDe999というのはチェンマイのバナナG.H.と同様、典型的な日本人の溜まり場だった。共同スペースでは常に日本人4〜5人がダベっていて、一度など少し様子を見に来たヨーロッパ人旅行者は、ひいて帰っていく始末だった。そしてそこに溜っている日本人が、タチ悪い。いい年こいて、日本で少し金を溜めてこっちで長いことダラダラとしている男が主体で、その固定メンバー2〜3人に様々な日本人バックパッカーが加わる。このおっさん達はG.H.の主といった感じで振る舞い、何でも知った様に能書きをくれる(勿論、僕よりは旅行慣れしているし、色々な経験も知識もあるわけだが)。
今思えば、チェンマイで同じドミトリーになった妖しい巨体(ベタな関西弁をしゃべり、やたら汚い風体だった)の男も同類だったのだろうが、こういう人間が何人もいてはかなわない。彼らの作り出す雰囲気にはとても馴染めなかった。彼らの様に、こっちで“漂泊”して過す人々に対して、出発する迄は憧れが無いでもなかったが、実際、目の当たりにすると、僕には日本での現実から逃げ出してきて、かと言って、こっちで根をおろして暮らすだけの覚悟も無い惨めな人間にしか見えなかった。
でも、今から思えば、僕は彼らの中にも、自分の姿を見つけてしまったから飛び出してしまったのかもしれない。つまり、僕の中にも、一歩間違えれば彼らの様になってしまうかもしれない、という素質の様なものを見つけてしまったことが恐怖となって、僕をつき動かしたのだ。