『旅行人』休刊に寄せて


 ガイドブックと言えば、もっぱら『地球の歩き方』だった僕が最初に『旅行人』を知ったのは、2001年11月、チベットのラサに滞在していたときだ。上海から西へ向かう旅が、色々な事情が積み重なった結果のチベット行だったのだが、当時の僕が持っていたガイドブックは、『地球の歩き方』の中国編とインド編(バナーラス、デリーとコルカタ部分のコピーのみ)だけだった。そしてそれらは、お世辞にも情報が豊富とは言えなかった。インターネットが普及していなかった当時としては、致命的だった。
 一方で、ラサで知り合った日本人の多くは、僕よりはるかに情報を持っていた。最初はすごいなーと思うだけだったが、すぐに彼らの持つ見慣れない白黒で文字ばかりのガイドブックの情報を元に彼らは話しているということに気付いた。そこには、チベットの聞いたことのない小さな街の地図から闇バスやヒッチハイクのゲットの方法まで事細かに書かれていて、度胆を抜かれた。それが『旅行人』だった。そこには、情報がなかったばかりに流したヤルカンドからラサに入る新蔵公路の抜け方についても、ヒッチハイクのポイントから検問の通り方といったTipsが満載だった(もちろん、非合法なので)。僕は、その時まで『旅行人』を持たなかったことを悔いた。その後の旅は、相棒が持つ旅行人のチベットバングラデシュのガイドブックのお蔭で成り立ったといっても過言ではない。帰国後も、折に触れてチェックしたし、ラダック四川の旅でもとてもお世話になった。

チベット―全チベット文化圏完全ガイド (旅行人ノート)

チベット―全チベット文化圏完全ガイド (旅行人ノート)

 その『旅行人』が休刊するという。ここ数年、次第に刊行頻度を落としてきていたから「ついに来たか」という感じで驚きはしなかったが、やはり寂しい。なので、休刊記念のトークイベントがあるというニュースを見かけたとき、躊躇せずに申し込んだ。
 そんなわけで行ってきた12月17日の「「ありがとう!『旅行人』」トークショー」@阿佐ヶ谷ロフトA。立ち見が出るほどの人出の中、同窓会のような和気藹々とした雰囲気だった。とりわけ印象的だったのは、イベントの冒頭で編集長・蔵前仁一さんが

『旅行人』を休刊するのは、僕自身の体力が続かないから(実際、時間をかけて取材したものでないと売れない)。出版不況とか若者が海外旅行に行かなくなったこととかに原因を求めようとする人もいるかもしれないが、自分が食べるだけの売り上げはまだある。

と言っていたこと。吉祥寺で一人出版社・夏葉社をやっている島田潤一郎さんと話していたときに、島田さんも「自分一人が食うに困らないだけの稼ぎを得ることは、そう難しくない」という趣旨のことを(本当は大変なんだろうけど)言っていたので、蔵前さんのコメントも「そうなんだろうなぁ」と思う。けれども僕は、『旅行人』の休刊に何がしかの象徴的な意味を見出さずにはいられない。「歩かない旅の時代に」でも書いたように、

  • 1990年代までの旅行者が年を取って旅のスタイルが変化してしまった(或いは旅に出なくなってしまった)。
  • その下の世代は海外旅行に興味を失い、また行ったとしてもスケルトンツアーを選択してしまうようになった。

という山口誠さんの分析が、この場合も有効なのだと思う。『旅行人』の読者が、そして蔵前さん自身が年齢を重ねて旅の嗜好や体力が変化した時に、良くも悪くも蔵前さんという傑出した個人のメディアという側面の強い『旅行人』が休刊するのは、当然の帰結だったのだろう(蔵前さんが「コーカサスの本を出してトークイベントをやったとき、コーカサスに行ったことがある、或いは行くつもりがあるという人がほとんどいなかった」というエピソードも話していたが、その背景にあるものは同じだろう)。これは、『地球の歩き方』が旅のスタイルの変化に合わせてそのあり方を変化させていったということとは対照的だったと思う。いずれにせよ、僕たちはバックパッカー/個人旅行の象徴とも言うべき『旅行人』という稀有な存在を、2011年に失ってしまった(無論、雑誌が休刊しただけで出版活動は継続されるが)。
 ところで、イベントでも話に出ていた『旅行人』前身である『遊星通信』の復刻は、是非やってもらいたいなと思う。固定ファンを中心に、買う人も多いだろうし、何より僕も含めた有名無名の多くの日本人のバックパッカーたちの貴重な「遺産」として、後世に残ってほしいと思うから(『遊星通信』は国立国会図書館にも所蔵がない(34号 (1993年10月)から所蔵))。

 『旅行人』休刊号の特集は「世界で唯一の私の場所」ということで、イベントで登壇していた皆さんの他に椎名誠さんや高野秀行さんといった人たちが、それぞれにとって思い入れのある場所や好きな場所を寄稿している。頼まれたわけではないが、僕も休刊に寄せて、駄文を書いておこうと思う。


 どこか一つの場所を選べと言われたときに僕が必ず答えるのは、ラオス南部のメコンに浮かぶ島々、シーパンドン(多くの島の意味らしい)。僕がこの場所を訪れたのは2001年3月、卒業旅行の途中だった。そこに至る途中に見た夕闇に沈む直前のメコンの美しさと、デット島での穏やかな日々が僕にとっての「唯一の場所」だ。
 ビエンチャンから13号線を南下して、ナカサンから船で渡るのがシーパンドンへの典型的なアプローチらしいが、僕の場合ははチャンパサックからコーン島経由の二日がかりの船旅だった。肌を焼いた太陽がようやく西に傾く頃、それまで青かったメコンは表情を変え、次第に深い緑になってくる。やがて、西の空が赤く染まりだすと、メコンはその薄赤い色と、東の真っ青な空の色とが深緑のメコンに溶け込んで、水面はまるでミルクをこぼしたかのような色に変化する。そこを切り裂いて、船が進んでいく。増えた島影や夕方の漁に出ている小さな船の間を、うまくすり抜けてながら…。
 そうしてたどり着いたのがデット島。今でこそインターネットも開通して、旅行者も多く訪れているらしいが、当時は、電気も水道もない、正に「知る人ぞ知る」ような場所だった。朝から本を片手に島を散歩し、疲れたら木陰で顔見知りの旅行者たちとおしゃべりしたり昼寝したり。夕方にメコンで汗を流してから馴染みの店で賑やかに晩飯を食う。その後は子どもたちの相手をしつつ読書。それで一日が過ぎていった。日に日に脳ミソが溶けていくような、穏やかな日々だった。
 島を出る前夜、馴染みのレストランでそのことを告げると、オーナーの家族全員から一本ずつ白い糸を左の手首に巻いてもらった。ラオスでは、遠くへ旅立つ人の幸運を祈って、こうするのだという。そして、オーナーは言った。
「息子よ、おまえはきっとまたこの島に来ることになる。待っているぞ」
 でも、僕はここに戻ってくることはもうないだろうと思っていた。もしいつか訪れたとしても、その時にはこの島は変わってしまっているだろう。それは、旅行者目当てのバンガローの建築ラッシュが始まろうとしていた島の様子を見れば、明らかだった。そういう意味では、二度と戻ることはない、否、できないのだ。
 僕は今でも時々、少し生臭いようなそれでいて癖になりそうなメコンの匂いとともに、シーパンドンを懐かしく思い出す。

 最後に。何はともあれお疲れ様でした。また、どこかで。