クアラ・トレンガヌ(1)

 「ハーイ!」コタバルのマクドでマレーシアオリジナルのチリバーガーを食べていると、白人女性バックパッカーがしゃべりかけてきた。「どこへ行くの?」「僕はクアラ・トレンガヌへ」昨日、De999 G.H.に置いてある「歩き方」を読んでいて、この“クアラ・トレンガヌ”問い思い込み承知で言えば、エレガントな雰囲気を持つ名前に魅力を感じて、次の目的地に決めたのだ。「あなたは?」「ジャングル鉄道に乗るの」マレー半島東部にも鉄道はある。しかし1日2本しかないから、僕は敬遠したのだ。暫くしゃべった後、「Good Luck!」「Have a nice trip!」と言って別れた。どうして彼女は旅行者が集まるマクドへ来て、何も食べずに、僕みたいな一人旅の東洋人に話しかけてきたのだろう?淋しかったのだろうか?その時、僕は落ち着いた静かな所が好き、というだけでバンコクを嫌い、チェンセーンみたいな田舎町を気に入ったのではなかった、と気付いた。小さな町の方が淋しくなかったのだ。大きな町で沢山の人に囲まれて語るべき友も無く、一人でいる方が遥かに淋しかった。同じ1人でいるにしても、人ゴミの中の1人と、まったく1人でいるのとではぜんぜん違う。僕は、この異国の地で語るべき友が欲しかったのかもしれない。
 「すいません、隣、空いてます?」日本語だ。クアラ・トレンガヌ行きのバスに乗って発車待ちをしている時だった。見るとDe999にいた日本人だった。同じ年位。「でも、このバス指定席やから・・・」。彼は「あ、そうか」と言って、後ろの方へ歩いていった。結局、隣に座ったのは2mもあろうかというデンマーク人だった。彼は陽気で、その長い脚を小さな席と席のスペースで持て余しながらもしきりにしゃべりかけてきてくれた。彼の英語力が僕のそれと大差無かったことも大きかった。彼曰く「僕は島を巡っているんだ。キレイだよ。君も是非行くべきだ」彼はMedangとかいう島に行くという。僕はカナヅチなので、今回の旅も泳ごうなんていう気持ちは全く無かったので、水着すら持ってきてなかったが、白い砂、青い海、サンゴ礁は魅力的だった。「悪くないな。僕もどこかの島へ行ってみようかな」
 12:00頃発のバスでコタバルを出て、クアラ・トレンガヌについたのは3時頃だった。途中のスコールが物凄くて、無事に辿り着けるか密かに不安だったのだが、クアラ・トレンガヌは気だるく晴れていた。デンマーク人と別れて、最初にしゃべりかけてきた日本人と、「歩き方」を見る限り一番良さげだったアンカービレッジというG.H.へ行った。1人6M$のドミトリー。入ると真っ黒に日焼けした国籍不明の男がベッドで寝ていた。そして、矢庭にベッドから身を起こして一言。「こんにちは」何と日本人だった。タイのホアヒンで焼いたという黒い肌、ラグビーで鍛えたというムキムキの体、どれをとっても日本人離れしていいたのだ。
 De999で一緒だった日本人はKといい、同い年のT大タイ語学科の2年生だった。そして、日本人離れした方はK大の4回生だった。このK大生が、僕が今回出会った人間の中でも、かなり出色していた。彼は僕と違った所に重きを置いていた。彼は食べ物に重きを置いていたのだ。クアラ・トレンガヌに着いた夜、3人で夕食に出かけたのだが、最初にチャイナタウンで肉骨茶(パクテー)と豚マンを食べ、そして街の反対側にあるビーチまで歩いていきながらハンバーガーを食べ、そしてビーチの屋台でテータレをイカの足などをつまみながら飲み、そして仕上げはアイスクリームゴレンもしくはABC。僕の胃は完全に健康な状態に戻っていたのだが、それでもきつかった。彼の胃袋はとどまることを知らなかった。
 初日の3/5の夜、クアラ・トレンガヌは街中電飾で溢れていた。華やかだった。次の日にTravel Information Center(TIC)できいた所では、この地方のスルタンの即位式があり、それを記念してこの日まで5日間ぶっ続けでお祭りをしていたのだ。クアラ・トレンガヌに着いた時感じた気だるさは、祭りと祭りの間が醸し出す空気によるものだったのだろう。ビーチはすごい人だった。こんな静かな港町のどこからこんなに沢山の人が出てきたのだろうと思う位だ。食物、布地、日用品など、雑多な種類の屋台、伝統芸能の影絵、特設ステージでのライブ。すごい熱気だった。夜中の11:00頃になるまで、子供連れでさえ帰らなかった。街中にかかげられたスルタン即位を祝う看板に電飾、そしてこのお祭り。人々のスルタンに対する敬意はまだ生きている様だ。マレー人が殆どのこの地方では。G.H.まで帰ってくるとその建物の前に売春婦らしき人達が5、6人立っていた。が、よく見るとみんな男だった。