「何に着目すべきか?」に参加

2011年9月3日(土)にアサヒ・アートスクエアにて開催されたa-cita café special program 2011 「『何に着目すべきか?』」にゲストスピーカの一人として出演してきました。

「毎日起きては繰り返すもの、平凡なこと、日常的なこと、明らかなこと、ありふれたこと、月並みなこと、並以下のこと、あたりのざわめき、慣れきったこと、それらをどう説明すればいいのだろう。どう問いかけ、どう記述すればいいのだろう。」(ジョルジュ・ペレック「何に着目すべきか?」より)

本イベントでは、アサヒ・アートスクエアの開かれた会場のなかに、「教室」と「キッチン」と「図書館」の中間にあたるような場をテンポラリーにつくり出します。そこに訪れるゲストや参加者とともに、互いに持ち寄った書物を共有・引用しながら、テーブルを囲んで会話を繰り広げること。それは、アーティストと鑑賞者、教師と生徒、作者と読者、売り手と買い手、ホストとゲスト、それらの関係性に問いを投げかけ、再編成するためのエクササイズなのです。

この一節について考えるための本(5〜10冊)を持参して、あれやこれやと勝手に話すこのイベント。イベントのサイトにもあるように、多士済済のゲストの中に混じって、少し話をさせてもらいました。僕が選書した6冊のリスト&コメントはこちら。

南洋通信 (中公文庫BIBLIO20世紀)

南洋通信 (中公文庫BIBLIO20世紀)

二列目の人生 隠れた異才たち

二列目の人生 隠れた異才たち

僕の見た「大日本帝国」

僕の見た「大日本帝国」

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

「ありふれた日常」は、それに着目する個人により記録される。個人の記録は、それに着目する作家によって物語として編みなおされる。物語は、時を隔ててそれに着目する歴史家によって解釈される。歴史家の解釈は、それらを自分の目と足でもって着目する旅人により再度解釈される。そして、これらは全て図書館に格納される。
「ありふれた日常」は、その瞬間に目に見えるものだけで構成されているわけではない。「ありふれた日常」の背後に着目するための6冊を選んだ。

登壇直前に喉に異物がささって声がうまく出ないというトラブルに加え、「アウェイ」ということも忘れて前提をすっ飛ばした話をしてしまったりして、トーク相手の柳本浩市さん(Glyph)のパスも拾えず…と、肝心の自分がさっぱりで、反省ばかりの出来でした。図書館員代表としては、非常に申し訳ない限り。時間も限られていたし、図書館の話だけに絞った方が良かったかなとも、今更ながらに思っています。
とは言え、今回、橋詰君たちが創出したのは、実験的で非常に興味深い「場」だったのは間違いありません。窓も何もない密室に作り出された「ひな壇」と、それを囲むようにあつらえられた低い椅子。その両脇にはバーカウンターとコピーカウンター。入り乱れるゲストとホストとオーディエンス。夕方で退散してしまいましたが、夜に向けて、更に面白い場になっていったんだろうと思います。
最近、「本」に着目したイベントが多く開かれているように感じています。Webで読書体験がソーシャル化されているように、本を巡るリアルなコミュニケーションも変わっていることの表れなのかもしれません。ともあれ、関係者のみなさん、有難うございました。


2018/3/23追記
柳本さんがこのときの対話の内容を、後で別のインタビューで紹介していたことに気づいたのでメモしておきます。

「データベースか、もののアーカイブか」in; 早稲田大学渡辺仁史研究室時間-空間研究会編, 『時間のデザイン:16のキーワードで読み解く時間と空間の可視化』, 鹿島出版会, 2013年.

ここで柳本さんは、アーカイブについての対話の中で、国立国会図書館のコレクションはあくまでも「選ばれた人」の記録でしかないので、「その時代の本当のことを知るためには、その時代に実際に生きた人の日記のようなものを1000人なり、1万人なりまとめて集めることができれば、事実がより分かってくるはずだ」から、「ブログやTwitterなどで、一般の人たちがログを残すようになっていて、それが宇宙ゴミのように拡大し続けて」いるので、「それを使って、世の中が無意識に進んでいこうとしている方向性を見つけられないか」と語っています。
これは正に、あの日二人で話していた内容そのものでした。トークイベント等での対話は、良くも悪くも一過性のものなのですが、それと思わぬところで再会すると、何とも言えない嬉しい気持ちになります。

時間のデザイン―16のキーワードで読み解く時間と空間の可視化

時間のデザイン―16のキーワードで読み解く時間と空間の可視化