「都市の幸」としての図書館

もう5年以上前。代々木公園の近くの四畳半に住んでいた頃、毎週末のように代々木公園を走ったり散歩ししたりしたものだった。そんなある日、テレビ番組の取材とかで、「公園で生活する人たちをどう思いますか?」とマイクを向けられた。そのときは、突然の質問に面食らったこともあって、「気にならないわけではないけど、自分にはどうしようもないことなので仕方ないと思っている」というニュアンスのことを歯切れ悪く答えた。もっとも、その歯切れの悪さには特に深い理由などなく、単にそういった路上生活者の人たちのことについて深く考えたことがなかっただけに過ぎない。
そんなことを思い出したのは、坂口恭平著『独立国家のつくりかた』を読んでいたとき、こんなフレーズが飛び込んできたから。

彼にとって、公園は居間とトイレと水場を兼ねたもの。図書館は本棚であり、スーパーは冷蔵庫みたいなもの。
(略)
それを僕は「一つ屋根の下の都市」と名付けた。家が居住空間なのではなく、彼が毎日を過ごす都市空間のすべてが、彼の頭の中だけは大きな家なのだと。同じモノを見ていても、視点の確度を変えるだけでまったく別の意味を持つようになる。

独立国家のつくりかた (講談社現代新書)

独立国家のつくりかた (講談社現代新書)

ここで言う「彼」というのは、坂口がインタビューしていたしてた路上生活者。これは、坂口が「彼」の隅田川沿いに建てられた畳一畳強のブルーシートハウスについて「狭くて大変じゃないですか?」という質問に対して、「彼」が「晴れていれば、隣の隅田公園で本を読んだり、拾ってきた中学校の音楽の教科書を見ながらギターを弾いたりできる。トイレも水道も公園にあって使いたい放題。風呂は一週間に一度、近くの銭湯に行く。食事はスーパーマーケットの掃除をしたついでに肉や野菜をもらえる。だから、家は寝室くらいの大きさで十分だ」と話したことを、坂口が言いなおしたものだ(思い起こせば、四畳半の狭さに辟易していた自分も、近くの図書館を書斎に、代々木公園を昼寝の場所に、屋上を憩いの場に、行きつけのバーを語らいの場にしていたものだった)。
坂口によれば、路上生活者たちは、都市に捨てられた余剰物(ゴミ)を転用して、家を始めとする自らが生きるために必要な糧や術に変換している。坂口は別著『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』でそういった余剰物を「都市の幸」と名付けた。
ゼロから始める都市型狩猟採集生活

ゼロから始める都市型狩猟採集生活

確かに、様々な情報に「無料」でアクセスできる図書館という存在そのものが、「都市の幸」の一つだという考え方は納得できる…とここで終われば良いのだが、実際の図書館の現場では「都市の幸」とか言っていられないのも事実*1。「問題利用者」という言葉もあって、そこには(特に迷惑行為に及ぶ)「路上生活者」もしっかり含まれている(この辺りは既に議論百出なので詳細は割愛)。とは言え、その「図書館」という存在も、僕たち図書館員の視点、地域住民の地点、路上生活者たちの視点…様々な視点に対して様々な様相を持つものなのだという点だけは、押さえておいてもよいのではないだろうか。
図書館の問題利用者―前向きに対応するためのハンドブック

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知をひらく?「図書館の自由」を求めて

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