『1984年』×アーカイヴ


2006.12 ミャンマーヤンゴンにて

僕がジョージ・オーウェルの『1984年』という作品を最初に意識したのは、高校生の頃、デイビッド・ボウイの『ダイアモンドの犬』に収録されていた「1984」というそのものズバリの曲を聴いたときだった。ただ、残念ながらその後ずっと、その本を手にとることはなかった。

それから十数年経って、ようやく『1984年』を読むことができた。特にずっと読まなかった理由も、今になって読みたくなった理由もない。たまたま本屋で目にとまった、それだけのことだ。このエントリーでは、「アーカイヴ」という言葉を手掛かりに、その感想を書いておこうと思う。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

1984年。世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国によって分割統治されている。「ビッグ・ブラザー」率いる党が支配するオセアニアでは、思想・言語などあらゆる市民生活に統制が加えられ、物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」(双方向のテレビジョン)によってほぼすべての行動が当局によって監視されていた。オセアニア・ロンドンに暮らすウィンストン・スミス―彼が主人公だ―は、党外郭(党員)の一員として、報道・娯楽・教育・芸術を管掌する真理省で過去の記録の改竄作業に従事している(他の統治機関として、戦争を管掌する平和省、法と秩序の維持を管掌する愛情省、経済問題を管掌する潤沢省がある)。
彼の仕事はこうだ。気送管を通じて、オフィスに修正(改竄)指示連絡のペーパーが送られてくる。そこには、対象となる資料―と言っても『タイムズ』しかない―と修正事項が記載されている。対象となる『タイムズ』のバックナンバーをテレスクリーンを通じて請求すると、数分のうちに資料が気送管を通じて届けられる。処理するのは、例えば党による過去の予測が誤っていた場合の修正や、抹殺された党員の事跡の抹消などだ。修正内容を口述筆機を使って作成し(作業時のメモ等は近くの「記憶穴」(建物内のどこかにある焼却炉へと繋がっている)に捨てる)、そのペーパーと問題のバックナンバーを気送管に送り返すと、他の修正文との照合を経た上でその号が再発行され、元の号は廃棄処分となる。改竄に改竄が重ねられた結果、誰も過去のことが分からなくなってしまっている…。ここには、「個人の記憶」はなく、あるのは「社会(党)の記憶」だけだ。
そんな日々を送るウィンストンが体制に不問・疑問を持つところから物語は始まるのだが(ウィンストンがその後どうなったかはここでは触れないので、気になる方は本を読んで下さい)、ここで注目したいのはこの真理省という組織のあり様だ。全ての出版物を格納し、管理する。ジャック・デリダはその著書『アーカイブの病』において、アーカイヴを「創設するものであると同時に保守するもの」と規定しているが、党によって創設され、そして完璧なまでに「保守」されている―編集され過ぎてその「はじまり」すら分からなくなってしまっているが―真理省は、正しく「アーカイヴ」そのものではないか。
アーカイヴの病 (叢書・ウニベルシタス)

アーカイヴの病 (叢書・ウニベルシタス)

ところで、エマ・ラーキンの『ミャンマーという国への旅』(原題は"Finding George Orwell in Burma")という本がある。ベンガル生まれのオーウェルが、警察官としてパブリックスクールの卒業後の5年あまりをミャンマービルマ)で過ごしたことから、オーウェルの作品の背景を彼の地に求めてミャンマー各地を旅行し、そして『1984年』でも示されている全体主義の悪夢が現実化した国としてミャンマーを描写している(もっとも、僕が旅行者として訪れた際にはあまりそう感じなかったのだが)。この中で、マンダレーに住むとある読書人が、国内では禁書扱いになっている『1984年』について、「これは社会主義共産主義、独裁主義について書いた本じゃない。権力と権力の濫用について書かれた本です」と言っている。
ミャンマーという国への旅

ミャンマーという国への旅

僕も、オーウェルが1948年に書いたこの本は、権力について書かれたものだと思う。繰り返し登場する党のスローガン「過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする」がそれを象徴している。そして、そのスローガンが端的に言い表しているように、その権力を支え、未来へ継続させるのが「過去」であるならば、この本は同時にアーカイヴの本であるとも言えるのではないか。
現在のアーカイヴは、図書館とともに現在の民主主義社会形成の一基盤であり、主権者への情報提供に関わる社会制度と位置付けられたりもするが(高山正也「日本における文書の保存と管理」)、そもそもは図書館とともに王や教会寺社の権威の象徴であり、その権力を支える記録資料の器として存在し、王や聖職者、国家官僚はそれらの知の遺産を管理独占しつづけることで、権威と権力を保持してきたとされている(大濱哲也「アーカイブズの原理と哲学」)。アーカイヴの持つ「権力への志向性」ということも忘れてはいけないということを、ジョージ・オーウェルは教えてくれているのかもしれない。
図書館・アーカイブズとは何か (別冊環 15)

図書館・アーカイブズとは何か (別冊環 15)