ラサにて(3)

 朝、目が覚める。
 外はまだ暗い。しゃべり疲れたドミトリーの住人たちはまだ眠っている。起こさないように静かにセーターを着込んで、Gパンをはく。敦煌で買った人民解放軍払下げの羊毛コートを羽織り、スニーカーをはく。ニット帽をかぶり、軍手をつける。重い扉をそっと開けて外に出て、中庭を横切る。吐く息が凍る。
 ホテルの門は閉まっている。ガチャガチャやっていると、門の脇の小屋で眠ってい小姐が眠い目をこすりながら出てきて、門を開けてくれる。毎朝のことだけど、少しふくれっ面。謝々。
 ホテルの前の大通りには、少しずつ人が戻ってきている。子どもたちは学校に向かって歩いている。北京時間ではもう8時なのだ。大人たちはポケットに手をつっこみながら、それぞれどこかに向かって歩いている。
 ジョカンに向かって歩く。前の方にポタラ宮を望みながら、左に折れて路地に入っていく。店はまだ閉まっている。路地は、バターの匂いが充満していて、軽く倒錯感をおぼえる。同じようにジョカンに向かう巡礼者たちもいる。マニ車を持っている者もいれば、五体投地するためのエプロンと手袋をはめている者もいる。みんな無言だ。
 5分もすれば、ジョカンの前に出る。勢いよく焚かれた香草の匂いにむせる。前の広場はすでに巡礼者であふれている。彼らが口の中でつぶやく真言が地鳴りのように脳髄に迫ってくる。自分の前で五体投地をする老人の、その伸びた背筋と手足の線の美しさに見とれる。しばらくすると、夢遊病者のようにふらふらとパルコルを回りだす。巡礼者たちの流れに乗って、ただ歩く。物乞いの子供たちの手を振り払う。その時だけスピードを少し上げる。
 道の脇にある建物に迷い込む。寺院だ。朝の勤行が行われている。小坊主がいたずらっぽい目でこちらを盗み見る。若い僧侶が微笑みながら手まねきしてくれるので、さらに歩みを進める。すると、おもむろにトゥン・チェン(チベットのホルン)が吹かれ、太鼓がたたかれる。腹の底から自我をひっくり返される。少し狼狽する。我に返ると、思わず手を合わせている。
 元の広場に戻ってくる。空もかなり白んでいる。そして、身体が冷え切っていることに気づく。広場のそばの光明食堂に入る。手垢にまみれた重い緞帳をめくりあげると、薄暗い閉ざされた空間に浮かびあがった白い眼球が、いっせいにこちらを見つめる。ひるまず中に入り、空いているスペースを見つけて潜り込む。固い長椅子に腰かけ、黒光りするテーブルに手を置く。男たちの値踏みをするような視線にさらされるので、精一杯の虚勢を張って毅然とした視線を返す。
 そこへ、ヤカンを持って巡回する小姐がチャイをひょいと差し出す。温かい。しばらくすると、ヤク肉入りのトゥクパ(チベットのうどん)をもってきてくれる。それを勢いよくかきこむと、ようやく店内を見回すことができるようになっている。空になっていたコップに、すかさず小姐がチャイを注いでくれる。あわてて紙幣を出す。トゥジェッチェ。
 チャイを何杯かお替りしてから、外へ出る。刺すような日差しがもう顔をのぞかせている。今日も晴れるみたいだ。顔を少ししかめながら、再びパルコルを歩く。少しずつ店が開き始めている。片袖がけにしたチベタン・コートに片手を突っ込んだリュウに出くわす。店の女の子と何か話していたらしい。挨拶を交わしてから、肩を並べてパルコルをもう一周する。そして、再び光明食堂へ。
 これが、ラサの朝。