波照間島

まだ背丈の低いサトウキビ畑を真っ直ぐに貫いた道が、茫洋たる蒼海へと緩やかな斜面を下っていく。

前日からの陽射しで、俺の顔は赤黒い顔になっていた。急に南国の強い太陽に曝されて妙な日焼けになってしまったようで、その薄汚れた服装と相俟って、“精悍”というより“不気味な”な様相を帯びてきていると、自分でも思う。
そして、波照間島でも陽射しは相変わらず厳しい。自転車で島内を巡るのだが、“じりじり”と肌が焼けていくのが分かる。タオルを頭に巻いただけではどうにもならない。
この島には日本最南端の碑があるという。沖ノ鳥島が実際の最南端でも、有人島としての最南端は波照間島ということなのだろう。そういえば、鳩間島の港には、“最南端の町の最北端”という、何とも中途半端なコピーが掲げられていた。
埋め込まれた日の丸が、青空と見事なコントラストを見せる最南端の碑までは、宿から自転車で急に道に飛び出してくる山羊に何度か驚かされながらサトウキビ畑をゆっくり抜けても、30分とかからない。
碑の側の東屋には、一冊のノートが置いてあって、ここにやってきた旅人たちが思い思いに言葉を綴っている。
そうしているうちに、日本を縦断してきたと思しきチャリダーが一人、また何か書き加えていた。しかし、この場所に至るまでにさほどのドラマの無い俺には、別に書くこともない。

陽射しはいよいよ厳しくなってきている。痛い位だ。俺は島の西にあるビーチの東屋で休息をとった。もちろん、泳ぐつもりはない。
泳ごうにも、背中や腹が真っ赤になっていて、シャワーですらまともに浴びることができない位だし、そもそも泳げないのは前にも述べた通りだし、それに何より、水着を持参していない。
俺は、林芙美子の『放浪記』の文庫本をむさぼり読んだ。以前とは違ってあまり大きなバックパックを担がなくなった俺が今回の旅で持ってきた、唯一の本だ。最南端の地まで温存してきた、最後の切札なのだ。
しかし、読み応えはあるが、読後に、曰く言い難い“悶々としたもの”が、体内にこみ上げてくる。明るい南国の陽射しにはそぐわない、ダラットや屋久島の湿気と雨。そして鄙びた温泉と焼け野原の東京に漂う、男女の腐臭。眩暈がする・・・
涼風に揺られて少しウトウトすると、太陽が少し傾いてきたようだった。自転車は5時まで借りてあったのだが、あまりの陽射しに挫かれた俺は、一度自転車を返すべく宿に戻った。そして必死で痛みに堪えながらシャワーを浴びた。殆ど拷問だ。昨日、何も塗らず何も着ずに海と戯れた自分の甘さを呪った。

近所の売店オリオンビールの350ml缶を買って、集落を散歩した。ビール缶を傾けながら、草臥れた麻のパンツに、汚れたサンダルを履き、サッカーシャツを羽織って歩く。空腹にアルコールが加わり、足元がふわふわしている気がする。
妙な感覚だ。昼間から無為に酒を飲みながら歩くことに少々後ろめたい気がするのは、ここが、日本語が通じる場所だからなのだろうか?
竹富島のようにどこまでも観光に従属した形で町並みが保存されているわけでなく、かといって効率を重視してコンクリートの建物に走るわけではなく、しかし金が無いばかりに家の手入れが行き届いていないわけでもなく、非常に絶妙なバランスの下に、波照間島はある。そこがこの島の魅力なのだろう。
そうこうしているうちに、夕食の時間となった。本日の宿泊客は、俺を入れて10名。夫婦2組にOL3人組、一人旅の女子大生2名、そして俺。まずまずのメンツだ。そして料理は鮪や海草など、美味いことは美味いが、八重山では何処へ行ってもそう大きく変らないメニュー。
しかし、その日のメインは波照間の泡盛泡波だった。消費に生産が追いつかず、島と石垣島の一部の売店でしか売られていないため、「幻」と冠されることも多いらしい。確かに、味の方も「幻」と言うほどでないにしても、飲みやすくてなかなかいける。ついつい2杯3杯とコップを出してしまう。
少し酩酊したところで夕食が終わった。おばぁの話だと、宿のテラスで宿泊客が夜な夜な宴会をするということだったので、少々期待していたのだが、それは見事なまでに裏切られた。
まず、リピーターと思しき夫婦が、知り合いの家へ行くと言って出て行った。さすがに「僕も連れて行って」と頼める雰囲気ではなかった。
3人組のOLもすぐに部屋に引き込んでしまった。さすがに「僕もまぜてくださいよ」と食い下がる勇気はなかった。
女子大生も月明りを頼りに最南端の碑まで散歩にでかけてしまった。さすがに「僕も一緒に行きますよ」といっても、変質者かと疑われるだけだ。
あとの人たちはあまりお酒が得意でないと言う。さすがに、そんな状況で無理に飲み会開催の音頭を取るのは、流石に躊躇われた。
結局、そのテラスで、ビールを一人で飲むことにした。
肴は、少し褐色がかった裸電球の光の下の真っ赤な花。チープなプラスチック製の椅子に両足を上げて、『放浪記』を適当に読み返しながら、ぬるくなったビールをちびりちびりと飲んだ。
暫くしてすっかり酩酊した俺は、腐臭を発しながら床に就いた。