西表島(2)

西表島は意外に大きな島だ。東部の大原から西部の上原・船浦まで車で小一時間はかかる。
二日目の宿は、上原の港近くのM荘。部屋は襖で仕切られただけで、ドアとベッドの文化に慣れた旅行者(俺含む)にはかなり衝撃的だった。
「下着が盗まれまた事件がありましたのでご注意ください」などという張り紙がしてあったが、下着くらいしか盗まれないのであれば、やはり日本の、特に田舎の治安はまだ良いのだろう。
ただ、よく海外の安宿とかで、女(西洋人が殆どだが)の下着も一緒に共同の物干し場に干しているのを見かけるが、長旅だから当たり前に汚いし、やはり下着に執着するメンタリティが理解できない。

蛇化未禰が強く誘うので、散歩に出かけたが、どうにもこうにも日中のカヤック疲労が出てきているので、足取りが重い。とりあえず暇だから、というだけの理由で何の風情もない集落や海岸を歩いたが、まったく面白くも可笑しくもない。気付けば時間は、宿の夕食の時間に迫っていた。かなり宿から離れていたので、その帰り道を思うと、気分は更に重くなる。
「宿まで走ろうぜ」と、伊毛打が何を思ったのか、唐突に、いつもの胡散臭さが漂う一見爽やかな笑顔で、言い出した。
俺と蛇化未禰が呆気にとられてモゴモゴ言葉を選んでいるうちに、伊毛打は走り出した。ハーフパンツの下から伸びる白い脹脛が妙に目立つ。
人間の心理とは微妙なもので、こういった時は、ついつい先駆者の背中を追いかけてしまうらしい。こうして男3人、サンダルのままドタバタと走り出した。
どれ位走っただろうか、いや、5分もすると、三十路を目前控えて体力に不安を残す蛇化未禰が、まず脱落した。続いて俺も、途中でこの行為の無意味さに気付いて走るのをやめた。段々と、伊毛打の姿が遠くなっていく。
俺と蛇化未禰は、無言のままゆっくり歩き、そして宿の近くのスーパーでビールを買い込んでから宿に戻った。
帰ると伊毛打は嬉しそうな顔をして晩飯をほおばっていた。
「遅かったな\(^o^)/」とか何とか言っていたが、あの場面で、その気もないのに少しでも走ってしまった自分がアホらしく思えて、俺は返事をしなかった。
飯を食って宿で明日のことを軽く打合せると、まだ7時過ぎだというのに伊毛打と蛇化未禰は寝だした。仕方ないので、一人でオリオンビールをちびりちびりとやりながら、宿の本棚から拝借してきた本を読むことにした。

ところで、俺は安宿に多く見られる、手垢にまみれた古い本が並んでいるような本棚が好きだ。これは、旅人がそこから本を持っていく代わりに、自分の読み終わった本を残していくというシステムによって維持されている。勿論、ちょっと借りて、読んで、返すというのもありだ。長い年月をかけて、蔵書構成が少しずつ変化していくところも面白い。
旅をしていると、どうしても時間は持て余す。長い旅であれば尚更だ。国内であれば、よほどの田舎でなければ本屋を探すこともできるが、海外だと、旅行者向けのこういった宿の本棚か古本屋で旅の友を探すことになる。そして読み終わったら、邪魔になるのでまた売る(本は、たとえ文庫本でも持ち歩くに重い。ペーパーバックを読む白人には、いくら図体と鞄がでかいとはいえ、心から同情する)。
様々な言語で書かれた、手垢にまみれた無数の本。その本がその場所まで流れてきた旅路を、そしてこれから流れていく旅路を思うと、少しドキドキする。本も旅するのだ。
種類も、つまらないサスペンスや豆知識ものから、文学書や哲学書まで様々だ。どういう気分だと旅先でこういう本を読みたくなるのか、理解できないものも多い。ただ、エロ本は人気があるらしく、なかなか手に入らない。
話が少し逸れたが、こうして俺は、また宿の本棚のお世話になることにした。

9時を過ぎた頃だっただろうか、いきなり辺りが真っ暗になった。どうも停電らしい。ブレーカーが落ちたとかかと思って暫く待っていたが、状況が変らない。最初は宿の人たちもあれやこれやと原因を調べていたようだが、途中で諦めて寝てしまったらしく、物音がしなくなった。おい・・・寝てる伊毛打と蛇化未禰はともかく、独り酒を楽しんでる俺はどうなる?
食堂に行ってみたら、長期滞在の石垣出身だという土方のアンちゃんが、戸棚から勝手にろうそくを取り出してきて、食堂においてくれた。
けれども、怪我の功名と言うべきか、真っ暗な建物のなかで蝋燭の明かりを頼りに酒を飲むのも悪くない。相手は、土方のアンちゃんとダイビングに来ていた2人組のOL。俺は、すすめられるうちに杯を重ねた。
酔い覚ましに外へ出て夜空を仰ぎ見る。半月なのに地面に自分の影がくっきり浮かび上がるくらいの明るさだ。鳩間島灯台の光が、遠くで揺れている。
11時頃になって、やっと電気が戻った。後で分かったことだが、どうやら島全体どころか竹富町(つまり離島)全体が停電だったらしい。道理でなかなか復旧しなかったわけだ。
俺はすっかり酩酊していたが、これに安心して、寝た。