アユタヤ〜スコータイ

 翌2月18日、朝早くにG.H.を出てアユタヤ駅へ。(実は駅とアユタヤ市外の間にはチャオプラヤ川があり、これを越えるには渡し船に乗るしかないのだが、この1Bのクルーズが実に気持ちいい)行きの飛行機の中で隣の人から破って貰った“歩き方”の時刻表にあった8:09発のでピサヌロークに行こうと思ったのだ。ところが駅員に訊いてもそんな列車は無いし、次に来るのは8:50分位だという。唖然としたが、どうしようもないので、それから切符を買って1時間20分待った。が、9:00を過ぎても何も来ない。更に1時間後、やっと来た。その列車は急行だった。僕のチケットは普通、3等だったが、次がいつ来るか限り無く怪しかったので、とりあえずそれに乗った。この列車が良かった(勿論、追加料金はとられたが)。車窓を流れる景色もさることながら、駅弁が良かった。白いご飯に半熟の揚げ目玉(?)と辛味のきいた野菜と肉の炒め物がのっているだけなのだが、僕的にはタイで一番だった。又、列車の中を様々な人が何度も往復する。弁当売り、ジュース売り、果物売り、新聞売り、そして乞食(主に盲だったり歩行障害者だったりする)。――タイの仏教は現世でできるだけ功徳を積んで、より良い来世を、と考えるものだから、タイ人は結構、乞食にもお金を恵むのだ――彼等は各々稼ぎの区間というのが決まっているらしく、駅にとまる度に顔ぶれが変わっていく。次は何を売りに来るだろう、と考えるだけで楽しい。窓から途切れることなく入ってくる涼風もあってこの6時間の列車の旅はかなり快適に過せた。
 ピサヌロークからはバスでスコータイへ行く。その時、僕はアユタヤ駅で知り合いになったY君という大学生と一緒だったのだが、2人して駅から3kmは離れているBus Station(B.S.)まで炎天下歩き、しかも地元の人ばっかりでスシ詰めのローカルバスで、そのでかいバックパックでヒンシュクをかいながら1時間揺られることになった。窓の向こうには夕焼けで赤く染まった、スモッグのかかった空と、ところどころにタワシをのせた様な木が生えている地平線が広がっていた。僕は思わずIggy Popの“THE PASSENGER”の“ラーラーラーラ…”とかいうサビを口ずさみそうになった。

 スコータイの宿は、二軒目に行った“YUPA’S HOUSE”に決った。といっても、部屋は一杯だから、ということで近くに住んでいる親戚の家の2階に泊めて貰うことになったのだ。蚊帳もあるし、部屋も広いが、何より2人で100Bというのが大きかった。その親戚という老夫婦も、英語が全然ダメで言葉をかわせなかったが、その笑顔が良かった。更に良かったのが、朝、僕がベランダでくつろいでたら揚げパンと温かいコーヒーと中国茶を持ってきてくれたことだ。このパンがまた美味しかったこと。揚げたてやったし。
 スコータイ遺跡公園はアユタヤに比べて遺跡が集中していたし、しかも今回はチャリを借りたので効率的にまわれたこともあり、そこそこ満喫できた。そこそこというのは、連れのYが一足先にこの日(2/19)の夜にバンコクへ発つというのではやく帰りたがったので結局2:00で切り上げざるを得なかったのだ。アユタヤもスコータイも思っていたより整備された“公園”だった。僕はジャングルの中に点在する遺跡群を思い浮かべていたので、そのギャップが僕に十分な満足をもたらさなかったのだろう。2つとも日本と比べれば、保存という面に関してはお粗末とはいえ、立派な遺跡公園すぎた。

 次の日の朝、昨日と同じ様にニワトリの鳴き声に起こされた(この家はニワトリを飼っているのだ)。前日の夕食、朝の揚げパンに引き続き、出発間際にも食事を一緒にごちそうになった。我ながらタイに来たばっかりでこんなにええ旅をしてもええんやろか、とも思ったし、できることならここにもっと居たかったが、あまりにも居心地が良すぎて、ダラダラとしてしまいそうだったので、何としても今日中にチェンマイに行こうと思ったのだ。今から思えばもったいないことしたな、と思うが、スコータイあたりまでの僕はあまりに精神的余裕が無かったように思う。どうも日程ばかり優先させてしまい、その土地を満喫するのに至らなかった。今となっては後の祭りだ。あまりに高い授業料だった。