アユタヤ

 1999年2月17日、23時30分。僕がタイに放り出された時間である。海外に1人で来るのは初めて、タイのことなどロクにガイドブックも読まなかったので右も左も分からない、という僕にとって、このタイでの初めての夜をドン・ムアン空港の固いイスで、イビキをかいていた白人を横目にまんじりともせず過ごした事程、心細い事など無かった。この時ばかりは――後にも先にも一度きりだが――60lとデカすぎたバックパックを放り出して帰りたくなった。
 始発電車でアユタヤへ行った。着いたのは、朝の6:00前。誰もいないだろうと思いきや、マーケットの賑わっていたこと。今更ながらここは日本と違うなーと、バターパンをかじりながら思った。早速、宿を探しに。おっかなびっくりで最初に見つけたGuest House(G.H.)へ。看板には“TR G.H.”とあり、その下には“RUN BY TEACHER”とあった。僕はこの看板にのせられることにした。つまり、「先生やったら大丈夫やろ」と言いきかせてここに決めた。そうでなければいきなり「歩き方」にも載っていない――といっても東南アジア編だが――、見るからに汚そうな所へは行かない。
 6:30なのにすぐ中へ入れてくれた。しかも80バーツ(B)という。喜んでそこに決めた。部屋には何も無かったが、何しかすぐ寝たかったのだ。やっと寝られる喜びから思わず「80Bか!」と溜め息交りに叫んだら、G.H.のオバさん、何を思ったか「じゃあ60Bね」と言ってくれた。何のことやらその時は全く分からなかったが、いきなりディスカウントに成功してしまったらしい。

 2時間寝てから、9:00にアユタヤ観光に乗り出した。好奇心の摩滅しないうちに見る所を見てしまおう、と遺跡公園を今回の旅の頭に持ってきたのだが、その試みはいきなり挫折した。というのは、タイの予想を上回る酷暑と、睡眠不足と、空腹と、アユタヤの遺跡の散らばり具合をあなどって(50Bのレンタル料をケチったとも言える)チャリンコを借りなかったウカツさが、遺跡巡りを昼の1時に切り上げさせたのだ。G.H.へ戻った僕は、日暮れ迄、読書と昼寝と隣室のタイ人(住み込みで働いているらしい)とのダベリで過した。これからの旅を暗示する様な一日だった。

 ちなみに看板の“RUN BY TEACHER”というのは、朝、僕を迎えてくれたオバさんのお母さんが高校で歴史を教えていることからつけたということだ。確かにこの“TEACHER”という言葉は人を安心させる効果がある。