序文

 なぜ人は“旅”に出るのか?それは人によって異なるだろう。旅先での様々な出会いを求めての場合もあれば、あれこれと、じっくりと思索する時間を求めての場合もあるだろう。しかし、結局の所、閉塞した現実からの逃避こそがその最大の動機ではないか?だから“旅”にはどんな華やかさ――現地の人や他の旅行者達と楽しい時間を過したり、美しい景色を目の前にしたり――の裏にも常に或る種の惨めさ(もしくはさびしさ)がつきまとう。
 その惨めさとは、自分を、各々長さが異なるにしても、「日常」から離れた“旅”という「非日常」に置き、「日常」の中に身を置いて生活している人々の場所に入り込み、そして又出て行くという事を繰り返す“旅人”という存在である、ということによるのかもしれない。
 この「日常」という基盤を持たない“旅人”という存在は非常に危うい存在である。そもそも、人は無意識的に“漂泊への”憧れを持っている。そして、本来「非日常」なものである“旅”を「日常」のものにした瞬間に、最早、それは“旅”ではなく、“漂泊”になってしまう。その一線を“旅人”はごく身近に感じることができる。この危うさこそが、同時に人を“旅”へと駆り立てる最大の魅力なのかもしれない。