レー旧市街にて

 レーの旧市街は旧王宮の足元に広がる一帯で、ラダック独特の土レンガを積んで作られた建物の間を、狭い路地が入り組んでいる。ここは、すっかり整備舗装されたメインバザールやホテル街とは違う、チベットらしい糞とお香がまじったような匂いが充満する陰気な路地だ。
足場も良くない。日陰ともなれば解けそびれた雪が凍っているし、冬場ということで水道も各家庭までは通っていないらしく、掘り起こされた水道管から勢いよく噴出しているのだ(水が必要な人は、この水を汲みに来るのだ)。
おまけに、オフシーズンのためか人影はまばらで、街も静まり返っていた。後ろで足音がすると少し驚いて振り返ってしまうくらいだ。路地によっては、人間より羊の方が我が物顔に闊歩するところもある。
要は、どうにも冴えないのだ。しかし、この雰囲気は嫌いではない。

そんな路地を、高度順応も兼ねてぶらぶらと散歩していると、突然、頭の上から声がした。僕を呼び止めているらしい。
見上げると、比較的立派なチベット様式の建物の2階から、1人の老人が顔を出していた。逆光で顔まではよく見えなかったが、「ちょっと上がっていかないか?」と言っているようだ。その建物の扉を見ると、“Old Ladakh Guest House”と書いてあった。確か、ガイドブックにも載っているような老舗のゲストハウスだ。

 老人の声に導かれるままに扉を押して門をくぐり、チベットの建物に独特の暗くて狭い階段を上っていくと、不意に屋上に出て視界が開けた。この周辺では一番背の高い建物らしく、目の前には旧王宮を抱えた丘が聳えていた。
「お茶でも飲んでいかないか?ここからの眺めは最高だろう?」
そう言って僕を迎えてくれたのは、このゲストハウスの老主人と、その息子である若主人の2人だった。どうやら、オフシーズンということで客も殆どいないらしく、暇を持て余していたらしい。
程なく老人は建物の奥へと戻っていったが、それと入れ替わるようにして、ゲストハウスのスタッフがチャイを運んできた。穏やかな朝の日差しの下、チャイを傾けながらお喋りするのも悪くはない。

 肩まで伸びた長髪の似合う男前の若主人は、引退したアイスホッケー選手だそうで、今はインドのナショナル・チームのコーチもしているという。この時点では知らなかったが、実際にレーの街の北外れには、スケート場らしきものがあった。
「日本にも行ったことがある。強い国だ。」と若主人は言った。僕は、確かにインドよりは強いだろうなと思ったが、口には出さなかった。
 30分の優雅な時間の締めくくりに、若主人はこう言った。


「いいか、この街では全てゆっくりと行くんだぜ。そして、ラダックを楽しんでくれ。」