エベレスト・ベースキャンプにて


 ランドクルーザーの旅3日目。この日、エベレスト・ベースキャンプへ向けて出発した。リュウは、まだ死んでいる。
 高原の一本道をずっと飛ばしていくと、突如、左に折れる曲がり角が見えてきた。その脇には、真っ蒼な空ににゅっと突き出した緑の看板があって、こんなことが示されている。
「左に行くと、チョモランマ(エベレスト)」
 ケサルがゆっくりハンドルを切る。ランドクルーザーはベースキャンプに向けて、ひたすら高度を上げていく。高度が上がるにつれて陽射しの鋭さは格段に増し、肌をジリジリ焼くように刺す。そして同時に、息苦しくなってくるので、みんな深呼吸を繰り返す。
 しばらく行くと、管理事務所があって、そこでケサルが入山料を払った。これはツアーの代金に最初から含まれているものだ。休憩がてら車から降りると、近く―どこにも家は見えないが―の子ども達が「1元!1元!」と叫びながら、屈託の無い笑顔で駆け寄ってくる。
 俺たちに突き出されたその小さな手のひらを覗き込んでみると、それは小さな貝の化石だった。この近くで採った、エベレストが昔改訂だったというこのささやかな名残を売って、小遣いを稼いでいるらしい。「アンモナイトだよ」とケサルが同じように覗き込みながら解説してくれる。
 結局、誰も化石は買わなかった。それでも子ども達は、笑顔で車を見送ってくれた。

 さて、その日の夜はキャンプの近くの小さな集落に泊まったのだが、食事を終えてチャイを飲みながら暖炉の周りで色々と話しながら温まったところで、もよおした俺は主人に屋上のトイレへ案内してもらった。
 「屋上」と書いたけれど、チベットのトイレは、家畜小屋の屋根に幾つかボコボコと穴を開けただけのもので、その下では落下物を餌として待ち受ける家畜がスタンバイする仕組みになっているのだ。分かりやすい循環型のエコ・スタイル・トイレで、さすがにラサのような大都会ではあまり見かけることはないが、田舎ではこれが標準仕様になっている。
 さて、そのトイレに案内された俺は、屋根の上に出た瞬間に息を呑んでしまった。東の空の青白い月に照らされたチベットの山々の美しさに、俺は尿意も忘れて暫く立ちつくしてしまった。下でヤクがいなないて我に帰るまでの数分間のことなのだが、あの時のぞっとするような美しさは一生忘れることができないだろう。

 翌日も、9:00前には宿を出た。リュウもさすがに回復してきたが、幾分ゲッソリしていた。
 この日もぐんぐん高度を上げて、次第に海底から生々しく隆起した岩山が両側に迫ってくる。地学の先生が見たら喜んで解説を始めてしまいそうなくらいに、くっきりと地層が積み重なっているのだ。俺は、高校時代の地学の先生の白髪頭を思い浮かべていた。
 そんなことをぼんやりと考えていると、2時間もしないうちに、道のどんづまりのようなところでケサルが車を止めた。そこがベースキャンプの基地ロンボクだった。山沿いには寺院も見える。こんなところにも日常の営みを持つ人がいるらしい。
「ここから真っ直ぐ1時間ほど歩いていくと、ベースキャンプだ。14時までに戻ってきてくれ。」
 俺たちは、5人それぞれにゆっくりと歩みを進めていった。標高5,000メートルを超える高地では、焦りは禁物だ。振り向くと、フランクの姿がない。
「あれ、あいつ何処へ行ったんだ?」
「あそこだよ、あいつあんなところに…」
 ローレンが指さした方を見ると、俺たちの歩いていた道の崖下の道を一人ポツポツと歩くフランクの姿が見えた。一人でエベレストの足許に向かいたいというその気持ち、分からないでもないが、相変わらず人騒がせなやつだ。
 暫く歩くと、手前の山影から、不意に世界最高峰が姿を現した。その圧倒的な迫力に全員が言葉を失い、そしてその場に立ち尽くした。お喋りなジェームズとローレンも一言も口をきかなかった。吹き下ろす風だけが唸りを上げていた。
 1時間ほどエベレストの雄姿を堪能してから、来た道を戻った。ちょっとゆっくりしすぎたので、ケサルとの約束の時間にはとても間に合いそうになかったが、さすがにペースを上げるわけにもいかない。けれども、途中までケサルが迎えに来てくれていた。心配して様子を見に来たらしい。ちょっとムッとしたように「14時って言ったじゃないか」とか言ってたが、シレっと「対不起(すまん)」と言って車に乗り込んだ。

 この日の宿であるティンリーという街道沿いの小さな集落に着いたころには、陽も暮れかけていた。たまたま同宿していた旅行者のグループがオランダ人だったおいうことで嬉しそうに話の華を咲かせるフランクとベッドでダラダラするローレンとジェームズたちをおいて中庭に出てみると、西の空がきれいな夕焼けに染まっていた。そう言えば、チベットではこれまで夕焼けは見なかったなぁと思いながら、ヨウコさんとリュウを誘って、外に出てみた。
 宿の西側の湿地帯だとよく見えるよな〜とか言いながら道路を歩いていくと、道路のはるか先から黒い塊の集団が物凄い勢いでこちらに疾駆してくるのが見えた。
 そう、またしても犬である。しかも、今回は明らかに「本気」である。言葉を換えると、尻をちょっと噛まれただけでは済みそうにない勢いである。
 三十六計を全チェックするまでもなく、ここは逃げるしかない。俺たちは宿までの50メートルほどを全力で走った。自分の筆力の至らなさで緊迫感が伝わってないかもしれないが、本当に必死だった。結局、辛くも宿の中に駆け込むことができたのだが、扉を閉めた瞬間にその扉がガリガリとやられるというまるで映画のようなシーンまで実地で再現してしまった。
 ともあれその日の日記に俺はこう書いた。「チベットはEnough!」