ザンムーへ


 翌日はツアー最終日。さっさと中尼国境へと車を飛ばしたいところだ。
 出発の準備で皆がバタバタしていた頃、リュウが妙なことを言い出した。
「馬でネパールまで行きたい!」
 見ると、宿の馬を引っ張り出してきている。どこかでそう言う話を聞いたことあるような気もしたが、この馬に関して完全なる素人が、しかもここまで来て何を言うのか。第一、宿の主人たちは明らかに困惑している。
 「今度一人で来た時にやってくれ」と言いながらまだ未練がましく馬を見るリュウを車に押し込み、ケサルは車を急発進させた。これで、1時間ほどの遅れ。

 一つの車に揺られ続ける旅も最終日となれば、長い距離を走ってきたというささやかな達成感と解放感で、テンションも上がるというものだ。この旅の間中、ケサルがメンバーのブーイングに一切耳を貸さずに頑なにかけ続けたチャイニーズ・ポップも、今や立派なBGMだ。ジェームズが妙な替え歌まで披露し始めて、普段は寡黙なケサルも笑いしっぱなしだった。
 ケサルもちょっと楽しくなってきたのか、「ちょっとアドベンチャーしていくか!」とか言いながら、道のない平原を爆走し始めた(恐らく近道だったのだろう)。ランドクルーザーの本領発揮である。ちょっとした小川を渡る度に、フランクが、そしてジェームズ・ローレンが叫ぶ。
「Amazing Adventure!!」
 平原を過ぎて道路に戻ると、高度が一気に下がりだした。蛇行しながら、谷の底へと一直線に進んでいくような道路だ。右の窓の外には、チベット高原では殆ど見なかった灌木や背の高い杉が岩肌を覆っている。そう言えば、空気も若干湿度を帯びてきているような気がする。ヒマラヤの南と北では、こんなにも山の表情が違うのか。
 谷側の窓に寄ってローレンやリュウとそんな話で盛り上がっていると、反対側の山側の窓でロクに景色が見えないフランクが突然叫んだ。
「Amazing discovery! Look at that tree !」
 見ると、何ということのない杉の木だ。他の人間だけで盛り上がっているのが面白くなかったらしい。30過ぎているくせにな何なのだ。

 14時にはヒマラヤにへばりつくように展開する国境の街ザンムーに到着した。国境を越えて物資を運ぶトラックが、商店やホテルが立ち並ぶ狭い車道に連なっている。人の顔つきも、漢人チベタンよりもネパール系が優勢だし、トラックもインドのタタ社製だ。
 ケサルとはここでお別れ。代金の半額を払ってお別れでも…と思っていたら、あっという間に闇両替のおばさんたちに包囲されてしまい、まともにお礼も言えないまま、ケサルはあっさりと車を返していった。5日かけてここまで来たが、飛ばせば明日のうちにはラサに着くだろう。
 中華料理屋で腹ごしらえして(この時、頑なにローカル用の中国語メニューの存在否定してツーリスト用の英語メニューを押し付ける食堂のおばさんと、ひと悶着あったけど、今回は省略)、両替も済ませてから、いよいよ国境へ。
 イミグレーションでは、中国を旅行している間中何かとお世話になった人民解放軍のお出迎えがあったが、今回はあっさりパス。ゲートを出ると、今度はトラックの客引きにつかまった。何でも、ここからネパール側のイミグレーションまでは8kmもあると言う。この中間地帯にはホテルなんかもあって、ここで泊まればパスポート上に空白の時間が出るなぁ…などとどうでもいいことを考えているうちに、フランクが客引きと1人100ルピーで話をつけていた。さすがにこういう時は頼りになる。
 そして、このトラックが面白かった。普段は人足や木材を運んでいると思しきこのオンボロは、荷台に俺たちを乗せて、バンピーな坂道を猛スピードで疾走するのだ。まるでジェットコースターである。ジェームズとフランクは荷台の上に立ちあがってまた「Amazing Adventure!!」とか奇声を発していた。一番体のでかいローレンは、こういうのが苦手らしくちょっと顔面蒼白だったが…。

 ネパールのイミグレーションもすんなりパスして、俺たちはネパールに入った。この時まですっかり忘れていたが、確かに内戦の影響も特にはないようだった。そこからローカル・バスに乗って、バラビセという小さな街へ出た。ここからはカトマンズまでバスも出ている。
 俺たち日本人3人組は、ここで一泊休んでからカトマンズに行くことにしたが、フランクたち白人3人組は「今日中に何としてもカトマンズに行きたい」と言って譲らなかった。できれば全員でカトマンズに入りたかったが、彼らとしては、(彼らにとって)まともなホテルや食事もなさそうなこんな田舎町にいる位なら、多少きつくても何でも揃うカトマンズに行っておきたかったのだろう。
 仕方がないので、彼らとはここで別れることにした。
 「お蔭で楽しい旅になった。ありがとう」などと型通りの挨拶をしていると、不意にフランクがトレーナーをまくって下に着ているTシャツのロゴを見せつけてきた。
「Anytime baby !!」
シャツには一言、そう書かれていた。そして、フランクは笑顔で言った。これが俺のモットーだ。カトマンズで会おう…。
「フランク、そのシャツ…」
「もちろん、俺のオリジナルだよ。このために取っていおいた」
 呆気に取られる俺たちを残して、3人組はカトマンズ行きの路線バスの屋根に乗り、漆黒の暗闇へと消えていった。

 ともあれ、こうしてチベットを縦断する旅は終わった。これは同時に、中国の旅を終えたということでもある。―旅は次の局面に入った。