多田恵一『南極探検私録』

多田恵一 『南極探検私録』 東京, 啓成社, 明治45(1912年), 400p.

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郡司成忠親子の千島探検では散々な目にあった白瀬矗は、帰国して紆余曲折を経た後、南極を目指すことになった。当時、世界の探検家たちが前人未到の南極点到達を目指して競いあっていたが、彼もそのレースに参戦することにしたのだ。欧米の探検家たちが各国政府の援助を受けて準備を進めていたのに対し、白瀬は民間の援助のみ(南極探検後援会。会長:大隈重信)という不利な条件にあったが、1900年11月に日本を経ち、1945年に南極に上陸、同年6月に帰還した(途中、資金が足りずに、ウェリントンで野宿せざるを得なくなったこともあったという)。
この一部始終にあって白瀬の片腕として活躍したのが、多田恵一(1883-1959)。多田は、講演会幹事の押川方義の紹介で白瀬に会って意気投合して最初の隊員となり、書記長として探検の克明な記録を残した。その成果が、帰国後わずか40日で出版された『南極探検日記』(前川文栄閣, 大正元)である。ところで、『南極探検日記』とほぼ同時に出された本がもう一冊ある。それが今回取り上げる『南極探検私録』である。この本では、資金集めや船や隊員の調達、送別会の様子や当時の世論などの、探検に至るまでの経緯が詳細に記述されている(探検については、多田直筆の絵日記など簡単に触れるのみ)。
さて、探検中から多田と白瀬の折り合いが悪くなっていたことは、当時広く知られていたことだった。事実、多田は帰国直後に探検隊を脱退しており、本書でもその顛末についても語られている。多田に言わせれば、白瀬は大雑把な計画しか立てられず、それをカバーしようとする多田に嫌がらせを行い、また隊員に対しても独善的な行動をとっていた人物ということらしい。帰国後すぐに書かれたこともあって、感情の赴くままに書かれたような勢いだ。白瀬と郡司の関係が、白瀬の立場を代えて多田との間に再び現れたということだろうか。
多田は、最後に白瀬にあてつけるように、「今回の南極探検は不十分だった」と総括して、自分なりの「次期の計画」というものを開陳している。学術的な調査ができるように学者の同行させるべし、装備・食糧も十分に備えるべし、資金は30万円は用意すべし(白瀬は14万円)…と、いずれも白瀬が十分に準備できなかったことばかりである。そして、こう結んだ。

請ふ、塊より始めよと、予は、提身先づこの事業の犠牲となつたのである。予と志を同じくする、青年諸子よ、起て、奮へ、天は廣く、地は大である。豆大の一天地に蝸牛角上の争を事とするのは、今日の問題ではないのである。

結局、多田はこの後南極に行くことはなく、ボルネオなど南洋への関わりを深めていくことになる(ただし、昭和34年に遺骨の一部が南極に撒かれたという)。