阿川太良『鉄胆遺稿』

阿川太良 『鉄胆遺稿』 東京, 平井茂一, 明治43年, 183p.

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長州生まれの阿川太良(1863-1900)は、元々は郡の書記をしていたが、地元選出の衆議院議員吉富簡一の秘書として上京、その後、庚寅新誌社に就職してジャーナリズムへの道へと入った。同輩たちと楽しく仕事をし、遊ぶ日々だったようだ。そして明治25(1892)年、29才の阿川に思いがけない転機が訪れる。
後輩の石川半山から、「君は人は良いが、西洋の学問も英語も学んでいないから、到底成功の見込みはない。郷里で先生と呼ばれるくらいがいいところだろう。どうしてもそれが嫌なら、中国あたりにでも行ってみたら道が開けるかも」と、とんでもなく無礼でかつ無責任なことを言われたのだ。阿川は「僕もそのことを考えていた」と嘯いたが、すぐに上海の新聞を取り寄せて中国の勉強を始めて渡航に備え、そして翌明治26年には、吉富らから資金を募って上海に渡ってしまった。
とは言え、徒手空拳での海外滞在は容易ではない。程なく懐の寂しくなった阿川は、明治27年6月、香港を経由してバンコクへと遷った。物価の安かったことが魅力だったのかもしれない。しかし、当時のバンコク在住日本人(岩本千綱ら)とは折り合いがよくなかったらしく、ここでも困窮を極めたようだ。賭場で糊口をしのいでいたらしい。
明治28年10月、阿川は遂に帰国する。「タイ王室に日本のハンカチを納入する仕事が来た。ついてはこれを機に、日タイ貿易事業を立ち上げたい」と話をでっち上げて、そのための準備のために戻ってきたのだ(もちろん、帰国の費用は石川が送金したもの)。結局、友人から金を集めて、図南商会という会社を立ち上げることになり、「商況調査」という名目でバンコクで日本輸入雑貨屋を開いた。店の方は、阿川になかなかの商才があったこと、それと日本製品に対する物珍しさもあってそれなりに繁盛していたらしい。
その後、阿川は、明治32年に、タイ東部・マレー半島への探検を行ったが、ここで病にかかり、明治33年7月、シンガポールで亡くなった。墓はスラングーンの日本人墓地にある(石川も、明治37年、洋行の帰途、ここに立ち寄っている)。
アジアを放浪する中で商機を見出し、それに人生を賭けた男の鮮やかな生き様といえるのではないだろうか。
なお、本書は阿川のしたためた旅行記(中国編、タイ東部編)・書簡(石川宛)が中心となっているが、後半には件の石川半山による伝記が掲載されている。