勉強会@中央線RT2017〜卯月を開催

(46) 2017/4/21 高円寺HACO 仲俣暁生マガジン航)「オルタナティブとしてのローカルメディア」

10周年目第一弾のネタは「ローカルメディア」にしました。
各地の図書館を巡るあれこれの見聞、数年前の実家処分、従兄弟たちの関西圏への回帰・定着、10年以上住む中央線沿線への目線、地方で本屋をやりたいという若者との邂逅…ここのところ気になっていた「ローカル」という言葉を、少し前に出た本を通じて知った「ローカルメディア」という言葉を通じて一度考えてみようというものです。

ローカルメディアのつくりかた:人と地域をつなぐ編集・デザイン・流通

ローカルメディアのつくりかた:人と地域をつなぐ編集・デザイン・流通

もっとも、雑誌などで前向きに取り上げられる田舎や地方といったイメージに収斂されるような「ローカル」には、東京に定着することを選んだ私自身、それほどシンパシーや前向きな展望も感じているわけではありません。都築響一さんが描くようなロードサイドのイメージの方が、むしろしっくりくるような実感を持っていますし、それが東京定着を選んだ理由でもあります。したがって、今の私には「東京の目線」でローカルについて語り考えることしかできません。
圏外編集者

圏外編集者

仲俣さんには、マガジン航が2016年から2017年にかけて主催したセミナー「ローカルメディアで〈地域〉を変える」の話を下敷きに、「東京在住の出版人」の目線からローカルメディアについて話をして欲しいとお願いしていました。
それを踏まえて仲俣さんが事前に書き起こしてくれたストーリーがこちら。自身が東京で体験してきた80年代以降の雑誌を中心としたメディア史を振り返りつつ、煮詰まりつつある?東京の地場産業としての出版メディアの「オルタナティブメディア」としてローカルメディアをとらえられないか?という問題提起です。

■概要
地元密着型の「ローカルメディア」への注目が集まっている。地方出版やタウン誌といった従来型ローカルメディアとは別の場所で、地方文化誌やリトルプレス、地方企業のPR誌が面白くなっているからだ。1990年代から2010年代にかけて、DTPやウェブの普及、地方が抱える深刻な問題の解決手法としての期待など、ローカルメディアをとりまく環境は大きく変わった。はたしてローカルメディアは、既存の出版やマスメディアの危機に対するオルタナティブとしてどこまで期待できるのか? 連続セミナー「ローカルメディアで〈地域〉を変える」の経験を踏まえての「マガジン航」編集発行人の仲俣暁生による報告。

■話の流れ
最大の問い:なぜ、日本のメディア(とくに出版)はこれほどまでに東京一極発信なのか?それこそが出版不況やメディア不信の元凶ではないのか?
1:個人史から。東京出身、東京近郊育ちの人間のメディア観=外部を知らない。
2:東京のローカル雑誌「シティロード」の経験(地方タウン誌の時代。1970〜80年代)
3:グローバル化に対応できなくなった東京のメディア(とくに雑誌)。1990年代〜
4:Act Local:『谷根千』の奇跡(1980年代〜2000年代)
5:「印刷されたブログ」としてのリトルプレス(2000年〜2010年代)
6:東日本大震災を経ての気付き(『AERA』の「放射能が来る!」への違和感)
7:『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)の出版(2011年)
8:出版は東京の「地場産業」にすぎないという仮説(著者も読者も東京にしかいない?)
9:ローカルメディアの再発見(Only Free Paper, 本屋B&B
10:「文化誌が街の意識を変える展」(2014年3月〜4月)
11:影山裕樹『ローカルメディアのつくりかた』、ローカルメディアセミナー(2016年)
12:来場者と議論したいこと:「地域雑誌」にとどまらない展開はいかに可能か?

結果、地方出身東京在住、東京生まれ東京育ち、地方へIターン…様々な来歴を持つ方々を迎えた今回は、自らの経験に引きけてそれぞれのローカル/ローカリティ観を語り合う場となりました(やはり、こういう自分事に引き付けられるお題は盛り上がります)。
ただ、再確認できたこともありました。全部書くと長くなるので、ここでは2つに絞ります。
一つ目は、"地産地消"のローカルメディアの面白さです。
『ローカルメディアのつくりかた』で紹介されている取り組みは興味深いものばかりですが、テキストを読む限り、『みやぎシルバーネット』、『ヨレヨレ』といった地方の特定のコミュニティで作成・消費されるメディアの方が、「ユニークさ」、「面白さ」という点で私には面白そうに思えます。『ラコリーナ』のように強力なスポンサーシップの下、親会社と地域の宣伝のために作成されるクオリティの高いメディアも素晴らしいのですが、メディアによってはそのコンテンツイメージと広告主のイメージがまるで食い違うことに象徴されるように、どこかちぐはぐな印象を持ってしまうものもあります。メディアごとに目的そのものが異なることは理解しているつもりですが、「地産地消」でないメディアは、ローカル発のメディアであっても、ローカルメディアではないような気もします。
二つ目は、地方における編集者とメディアの邂逅による可能性です。
仲俣さんは「各地にライターもデザイナーもいるが編集者がいないが、地域のシガラミの中でもがく編集者がいないとメディアにならない」という趣旨のコメントをしていましたが、ある程度の編集スキルを身に付けるとなると、少し乱暴ですが、出版を地場産業として抱える東京しかないのでしょう。様々な理由で地方に拠点を移す/戻す人がいますが、編集スキルを持った人と地縁・趣味・施設…何でもいいですが、何がしかのローカル・コミュニティと出合ったときに、オルタナティブとしてのローカルメディアが生まれる可能性が出てきそうです(もちろん、簡単に出来ること/続けられることではないのですが)。
こういう集まりで、バックグラウンドが異なる参加者全員が「これだ!」という"答え"を持って帰れるということはあり得ず、今回もそうでしたが、何か"もやっとしたもの"をそれぞれが持ち帰ることになります。ただ、敢えて足りないものがあったとすれば、ローカルメディアを実践している参加者と、ローカルメディアの作り方とコンテンツをめぐる具体的・実践的な語りです。
その場では「ローカルメディア縛りのビブリオバトルもいいかも」なんて言いましたが、機会があれば続編を企画したいと思います。

2017/5/1追記
当日の話を、仲俣さん本人がまとめられていたので、御紹介。
ガラパゴスからトランス・ローカルへ

B級写真カレンダー2017年度版を作成

2012年2013年2014年2015年2016年…と続けてきたのでこのシリーズも6年目。2017年度のカレンダーを作った。なお、「2017年」ではないのは、単に作り忘れていたからで、深い理由はない。
使った写真は、(今回は少し条件を変えて)モノクロであることと横長であることを条件に、これまで写真展等にあまり出したことがないもの、即ち「B級」を中心に選んでいる。来年1年間、職場のデスクに置いてあると思うので、またまた生温かい目で見守ってもらえればと。

4月:オランダ・ロッテルダム(2010.8)

5月:フィンランドヘルシンキ(2009.9)

6月:イスラエルエルサレム(2011.1)

7月:日本・東京(2014.8)

8月:イスラエルエルサレム(2011.1)

9月:ベルギー・ヘント(2010.8)

10月:フィンランドヘルシンキ(2009.9)

11月:中国・成都(2007.10)

12月:中国・成都(2007.10)

1月:イスラエルエルサレム(2011.1)

2月:中国・成都(2007.10)

3月:ベルギー・ヘント(2010.8)

「ガード下の「ゆるく尖った場」:10年目の勉強会@中央線」を執筆

2008年2月20日にスタートした勉強会@中央線が、10年目に突入しました。
まさかこれほど息の長い会になるとは始めたころは思いもしませんでした。我ながらよくやめなかったなとは思わないでもないですが、それより何よりこれまで関係していただいた皆さんのお蔭です。この場を借りて御礼申し上げます。

せっかくの区切りなので、これまでのことをまとめておこうと思い立ち、『ラーコモラボ通信』に「ガード下の「ゆるく尖った場」:10年目の勉強会@中央線」という文章を書いてみました*1
これまでブログなどに書き散らかしたりした内容もまとめています。よろしければゼヒお読みください。

せっかくの10周年目ということで、派手にやりたい気持ちもないわけではないですが、現状、節目の50回に向けていつもどおり粛々とやっていくこうと思います。引き続きご贔屓のほどを。

*1:どの媒体にお願いするか迷ったのですが、実績一覧を掲載したかったこともあり、文字数制限のある紙媒体を避けて、メールマガジンにしました。本メルマガの「図書館における今後の学習環境を考える」という趣旨に合致するかどうか微妙なこの企画を拾ってくれた編集部に多謝!

前田利定『支那遊記』

前田利定 『支那遊記』 東京, 民友社, 大正元(1912)年, 182p.

<本文>

子爵/貴族院議員・前田利定(1874-1944)は明治45年5月31日、神戸港から丹波丸(日本郵船の客船)に乗り込み、上海に向かった。
旅の理由は特に記されていないが、貴族院議員の視察旅行と思われる。前言で

只此の四十日が程陸の旅海の旅を重ねし間馬の上船の中にて目に触れ耳に聞きたるその日その日の出来事や頭脳に印象したる事共を書きつらねて此の行に加わらざりし先輩同僚の方々へ其興趣の幾分を頒たんが為なるのみ

と書いているのが、この一節こそが本書の性格をよく表すものだろう。

さて、上海港に到着したのは6月4日。同地で在留日本人たちと交歓し、同6日、鉄道で蘇州に移動した。
蘇州では寒山寺に参った他、日清汽船株式会社の白岩龍平と対面し、同じ佐々木信綱門下の艶子夫人と意気投合した。蘇州には宿泊せず、そのまま南京に進んだ。
南京で明の故宮等を訪れて古を偲ぶなどしてから、同8日、船で長江を遡った。船中で目にした夕景が印象に残ったようだ。少し長いが引用しよう。

長江のたそがれの景色ほど忘れられぬものは無之候 此度の支那の旅の中にて永遠に忘るるの期は御座なかるべく候 日は西山に落ち残照散り候へ共水光猶明に暮色來ること遅く御座候 やかで晩霞淡く流れ來りて遠山は烟につつまれ岸頭の水村緑莎の洲はぼんやりと柔き線を劃し居り申候 長江の積水は萬里雲際より流れ來りて下悠遠なる空の中へと流れ消え居り候 (中略) 暮色愈々加はりて川上より來る民船の燈影美しく水に落ちて静寂なる長江の夜色なんとも申されず候 夜涼水の如く午熱を洗ひ去りて軽袗船欄に倚り候へば月なけれども星鮮やかに江上の清風此の良夜を奈何せんやにて候

同12日、漢口で船を降り、鉄政局や日本人の経営する製粉会社等を視察した。翌13日には湖広総督・黎元洪から茶菓の招待を受けた。ちなみに、前田は黎元洪を「一介の武辧に無之 (中略) 溢るる許りの愛嬌を湛えて一種人を引き付くる力有之候 男に候 且つ軍人に似合しからぬほど温厚長者の風あるを見受け申候」と絶賛し、この地方の衆望を集めるのも無理ないとしている。
14日、漢口から鉄道に乗り込んだ。行き先は北京である。到着は27時間後の15日夕刻。その夜は、中華民国の議員団も交えての宴に参加した。
15日、大総統・袁世凱を表敬したが、足元も覚束ないその老いっぷりに戸惑ったようだ。翌17日からは民国政府の議会や天壇などの視察・見学に明け暮れた。
19日に八達嶺を経由して天津に、22日に営口に、24日に大連に移動した。
25日には旅順で日露戦争の戦跡を見学し、とりわけ旅順要塞については「陥落し候事が寧ろ頗る不可思議に存申候」と感想を述べている。
26日に旅順を発ち、長春を経由して28日にハルピンに到着した。そして翌日には、撫順炭山に見学に赴いている。ちなみに、この頃、少し里心がついたのか、「月満つる頃に帰へるちちぎりしを 吾が子や待たむ月の満つれば」という歌を詠んでいる。
その後、30日に奉天、6月1日に安東、そして2日に仁川と移動したところで、本書は終わっている。恐らくは、ここから船で帰国したのであろう。

本書を通読すると、やや冗長なきらいがないでもないが、修飾表現がよく工夫されている印象を受ける。議員の海外視察旅行記の中では異色とも言えるだろう。エッセイを数多くものしている著者の面目躍如たるところか。また、歌人らしく自作の短歌を折々に挟み込んでくる一方で、政治家らしく上海での一円銀貨の流通事情や蘇州の紡績業、南京の商況、長江上の汽船事業の角逐、民国政府の課題、南満州の経済状況などの調査分析にも字数を割いているのも特徴的である(議員視察なので当然と言えば当然だが)。

国立国会図書館所蔵敦煌文献(メモ)

国立国会図書館所蔵の敦煌文献に関するメモ。適宜追記していく(最終更新日:2023/11/25)。

敦煌文献一覧*1*2

濱田徳海旧蔵。

  • WB32- 2(D) 金光明最勝王経 巻第9(写1巻)×

濱田徳海旧蔵。

  • WB32- 3(M) 金録晨夜十方懺残巻(写1巻 残背文字あり)△

濱田徳海旧蔵。道教文献(唐代の金(竹+録)斎儀のうち十方懺に関わる内容)。元はスタイン3071と同一の巻物。ペリオ2989は同一の書物を書写したもの。[神塚2013]背面の「諸寺付経暦」(826/827年)からは、当時敦煌には17寺があったことが分かる。[土肥1980]濱田購入の前に安藤徳器が北京で見かけた。[岩本2014]

  • WB32- 4(D) 四分戒本(写1巻)△

濱田徳海旧蔵。

  • WB32- 5(D/D) 浄名経関中釈抄 巻上(道掖撰集写1巻)×

濱田徳海旧蔵。濱田の前は村口書房旧蔵か。[岩本2014]

  • WB32- 6(M) 大乗顕識経 巻上(写1巻 巻末に唐永隆元年とあり)×

濱田徳海旧蔵。

濱田徳海旧蔵。濱田の前は村口書房旧蔵。[岩本2014]

  • WB32- 8(D) 大方便仏報恩経 巻第1(写1巻)×

濱田徳海旧蔵。濱田の前は栗原貞一旧蔵。[岩本2014]

  • WB32- 9(D) 大方便仏報恩経 巻第2断巻(写1巻)×

濱田徳海旧蔵。濱田の前は栗原貞一旧蔵。[岩本2014]

濱田徳海旧蔵。

濱田徳海旧蔵。

濱田徳海旧蔵。

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-14(D)(J) 大般涅槃経 巻第12(写1巻 巻末に隋大業2年…とあり)×

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-15(D) 大般涅槃経 巻第15(写1巻 巻末に隋大業2年…とあり)△

濱田徳海旧蔵。濱田の前は村口書房旧蔵。[岩本2014]

濱田徳海旧蔵。

濱田徳海旧蔵。濱田の前は山合喜一郎旧蔵。[岩本2014]

  • WB32-18(D) 大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経 巻第9(写1巻)×

濱田徳海旧蔵。濱田の前は山合喜一郎旧蔵か。[岩本2014]

  • WB32-19(M) 仏説灌頂章句抜除過罪生死得度経(写1巻 巻尾欠 着色扉絵付)×

濱田徳海旧蔵。濱田の前は山合喜一郎旧蔵。[岩本2014]

  • WB32-20(D)(J) 仏説護国経(写1巻 巻首欠 訳場列位付)××

濱田徳海旧蔵。濱田の前は山合喜一郎→村口書房旧蔵。[岩本2014]施萍(女+亭)によれば、非敦煌文献。

  • WB32-21(D)(J) 仏説金剛手菩薩降伏一切部多大教王経 巻下(写1巻 訳場列位付)××

濱田徳海旧蔵。施萍(女+亭)によれば、非敦煌文献(高山寺本)。

  • WB32-22(D)(J) 仏説尊勝羅尼経呪(写1枚)△

濱田徳海旧蔵。背に「(束+のぶん)帰義軍節度使瓜沙等州」とあるらしい。

  • WB32-23(M) 仏説八陽神呪経断巻(写1巻 紙背に太平興国9年…とあり)△

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-24(D)(J) 仏説法句経(巻末書名:仏説法句経 禅秘要経 大弁邪正経)(写1冊)△

濱田徳海旧蔵。

濱田徳海旧蔵。

濱田徳海旧蔵。

濱田徳海旧蔵。

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-29(D)(J) 西域法宝遺韻(写1帖 写経断片貼付)○

濱田徳海旧蔵。仏典の断片を一冊にはったもので、一部はトルファン文書か。[岩本2014]

  • WB32-30(D/D) 道教叢書残巻(写1巻 紙背に別文)△

濱田徳海旧蔵。唐代?の道教文献。台湾人の林熊光(1897-1971)旧蔵で、道教文献と最初に比定したのはその友人・神田喜一郎。紙背に仏教の願文あり。ペリオ2443と同一の書物からの書写(元は同一巻子の可能性もあり)。『旧唐書』経籍志/『新橙書』芸文志にある『道要』30巻の一部との説あり。[神塚2013]

  • WB32-31(D) 仏名経断巻(写1巻 着色仏像1体)×

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-32(D)(J) 仏名経断巻(写1巻 各行首採印仏)××

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-33(D)(J) 仏名経断巻(写1巻 各行首印仏)××

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-34(D)(J) 仏名経断巻(写1巻 着色仏像12体)△

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-35(D)(J) 写経断巻(写1枚)×

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-36(D) 写経断巻(写1枚 妙法蓮華経巻2譬喩品第3)×

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-37(D) 写経断巻(写1枚)×

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-38(D) 写経断巻(写1枚 着色仏像4体)×

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-39(D) 写経断巻(写1巻)△

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-40(D)(J) 写経断巻(写1枚)×

濱田徳海旧蔵。施萍(女+亭)によれば、非敦煌文献。

濱田徳海旧蔵。佐藤貴保によれば、非敦煌文献、大方広仏華厳経経巻第74。[岩本2014]

濱田徳海旧蔵。佐藤貴保によれば、非敦煌文献、大方広仏華厳経経巻第74。[岩本2014]

  • WB32-43(D) 西蔵文字写経(写1巻)○

濱田徳海旧蔵。箱書に「(多田)等観拝書」。岩尾一史によれば無量寿宗要経。[岩本2014]

  • WB32-44(D) 西蔵文字写経(写1巻)○

濱田徳海旧蔵。岩尾一史によれば無量寿宗要経。[岩本2014]

  • WB32-45(D) 西蔵文字写経(写1巻)○

濱田徳海旧蔵。岩尾一史によれば無量寿宗要経。[岩本2014]

  • WB32-46(D) 一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経(刊1巻)××

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-47(D)(J) 敦煌写経2種合装(写1巻)××

濱田徳海旧蔵。

  • WB32-48(D) 隋経断巻(写1巻)××

濱田徳海旧蔵。

  • WA37- 9(D) 後周顕徳二年暦断簡○

新城新蔵旧蔵。新城文庫(宇宙物理学者新城新蔵(1873-1938)の収集した天文学、暦学関係コレクション。昭和18年に購入)所収(購入は大正15 年〜昭和9 年の間と推定される。[岩本2018])。後周・顕徳二(955)年9月1〜29日の具注暦。国立国会図書館の展示「日本の暦」(1984年10月)に「伝敦煌出土」として出展(『国立国会図書館所蔵個人文庫展「日本の暦」展示会目録』1984年)。詳細な分析・学会への紹介は西澤宥綜による(「「顕徳二年暦断簡」考釈」『中国科技史料』21-4, 2000年)。書式等から帰義軍押衙・(羽+ふるとり)奉達撰と推定。[西澤2004]

三界寺旧蔵の唐代の写経か。上野図書館旧蔵。大正2年3月に購入。[藤井1955][岩本2013][岩本2014]

  • WA 2-21(D) 大智度夢化行六度品―

隋唐初の写経か。上野図書館旧蔵。昭和18年以前に受入。[岩本2014]

※各文書の真偽については研究者の間でも意見が分かれている。

  • 土肥義和氏は「真本と思われる13点、疑問を含むもの14点、保留21点」としているが、詳細は公開されていない。[池田2009]

濱田徳海旧蔵敦煌文献(WBXX。『敦煌等経文』として整理)購入の経緯

濱田徳海(1899-1958)は鹿児島県出身の大蔵官僚。1939年から興亜院華中聯絡部調査官に、1944年に大使官参事官・国民政府財政顧問となり、北京や天津で活動した。[国立国会図書館1962][方2016]
濱田は中国滞在中、清朝・民国期の官僚でコレクターとして知られた李盛鐸旧蔵の敦煌文書の一部を、銀行家の王克便を経由して入手するとともに、帰国後も古書市場で収集を続けた。[岩本2020(氣賀澤2020所収)]濱田収集文書の全容は東洋文庫に資料が残されている。[氣賀澤2020]
国立国会図書館岩井大慧東洋文庫長(当時)の紹介により濱田徳海旧蔵敦煌文献を濱田の遺族から購入したのは、1962年から1963年にかけてのこと。重要文化財5点、重要美術品12点を含む。[国立国会図書館1962][土屋1991]ただし、1961-1962年かもしれない。[陶山1974]
ただし、これを仲介した井上書店の井上周一郎によれば、

  • 濱田が戦後(昭和1947-1951年頃)に敦煌文献を収集していた際、井上書店の顧客であった。
  • 濱田の遺族は200点にものぼるコレクションの一括での販売を希望しており、依頼を受けた井上が売却先を探していた。
  • 井上が国立国会図書館と交渉して全部購入してもらうことで合意(評価額は2000万円のところ、10年間の年賦払い)。
  • 国立国会図書館側は京都大学も藤枝晃氏に相談を乗ってもらいながら話を進め、購入するものも藤枝が実見の上、選定していた。
  • 購入は4年目に予算不足を理由に破約となり、残部は井上が購入した。

とのこと。[井上1987]国会図書館が購入の継続を取りやめた理由について、当時の著名な学者が全て偽造であるという指摘したたため、という説もある。[方2016]*3
また、購入経費の予算措置に際して、昭和35年12月13日の衆議院議院運営委員会図書館運営小委員会で、以下のやり取りがあった。

重点項目の第二は、本格的な図書館奉仕に必要な経費であります。そのおもなものは、図書購入費六千六百九十三万円であります。従来は、何分書庫の狭隘によって、蔵書の十分な充実を見ることができず、今日に至ったのでありますが、特に外国図書の弱体が痛感されますので、三十六年度からは、わが国唯一の国立図書館として外国の一流中央図書館に比肩し得る蔵書構成を持ちたいと考えております。なお、このうちには、国会からの要望に基づき、近来急速にクローズアップされました中近東、アフリカ関係の資料を整備する経費としまして一千四百万円、また、浜田徳海氏旧蔵の敦煌文書の購入費一千万円が含まれております。

  • 大野市郎図書館運営小委員会委員

十ページの「敦煌文書」というのはどんなものですか。

最古の仏教の原典でございます。敦煌の石窟からスタインが発掘した敦煌文書というものは、今存在する仏典としては最高の権威のもので、これはロンドンのブリティッシュミュージアムの図書館とか、フランスの図書館に入っております。もちろん北京の図書館にもございますが、それを、浜田徳海さんという方が中国に長く大蔵省の役人として在勤しておられた関係で数十点お持ちで、そのままなくなられた。これをそのままにしておきますと、海外に流出するおそれがありますので、これを国会図書館として収蔵することが、日本の仏教その他東洋学研究のために欠くべからざる資料ではないかということを専門家がサゼストしてくれますので、全部ですと相当巨額になりますので一度には買えないと思いますが、約半分くらいの分量の予算を計上いたしました。

  • 阪上安太郎図書館運営小委員会委員

先ほどの敦煌文書ですが、学者の中で言われております価格はどのくらいですか。

その価格の問題でございますが、それは専門家に鑑定させなければなりません。さらに、にせものが多いですから、それが本物でなければなりません。まず、本物か、にせものかということを十分専門家に鑑定してもらわなければなりませんし、それから、本物とすれば、その価格でございますが、現在ありますのが、私どもの承知しておるのでは、合わせてたしか百二十点、その総額を専門家は二千四百万円と鑑定しております。

  • 阪上安太郎図書館運営小委員会委員

こういった古文書とか古典の購入については、私はよくわからないのでお聞きしておきますが、何か委員会のようなものがあるのでしょうか

館内には現在のところ委員会は特別ございませんが、いろいろ古書の専門家がいるものですから、その古書の専門家に鑑定を依頼して買っておるようでございます。それも慎重な手続をとらなければならぬと考えております。

ここでは、全ての文書を濱田が中国滞在中に購入したかのような説明だが([方2016]もこれに則っている)、実際は帰国後に古書市場で各所から購入したものも含まれている。[井上1987][岩本2014]他にも、点数や値段などが実際の数字と乖離しているので、この答弁内容は必ずしも正確ではないとみなすべきだが、当時から国立国会図書館は偽造への懸念を有していた点は注意すべき。
濱田徳海旧蔵敦煌文献(前述のとおり200件を超えていた模様)について、国立国会図書館が購入しなかったもののうち36点については、近年、中国の国際オークション会社である伍倫拍売が保持していることが判明した。恐らくは井上書店から入手したものであろう。[氣賀澤2020]一覧は次の通り。[方2016][岩本2018]ここには偽造の指摘は入っていないが、各文書の真偽の判断は留保すべきだろう。

  • 伍倫01号 妙法蓮華経巻2(濱田005、660年写本)
  • 伍倫02号 妙法蓮華経巻5(濱田012、9-10世紀写本)
  • 伍倫03号 敦煌洪潤郷百姓借貸契約(擬)(濱田013、9-10世紀写本)
  • 伍倫04号 妙法蓮華経巻6(濱田016、7-8世紀写本)
  • 伍倫05号 妙法蓮華経巻6(濱田017、7-8世紀写本)
  • 伍倫06号 1.妙法蓮華経(小字本)巻5、2.妙法蓮華経(小字本)巻6、3.妙法蓮華経(小字本)巻5(濱田018、9-10世紀写本)
  • 伍倫07号 1.妙法蓮華経巻7、2.妙法蓮華経(小字本)十八及題既記、背.祷補紙残片(濱田039、8世紀写本、ただし背は不明)
  • 伍倫08号 妙法蓮華経(8巻本)巻8(濱田026、7-8世紀)
  • 伍倫09号 大般涅槃経(北本宮本)巻31(濱田036or23、9-10世紀)
  • 伍倫10号 大般涅槃経(思渓本)巻18(濱田038、6世紀写本)
  • 伍倫11号 大般若波羅蜜多経巻67(濱田041、8-9世紀写本)
  • 伍倫12号 大般若波羅蜜多経巻284(濱田045、8-9世紀写本)
  • 伍倫13号 大般若波羅蜜多経巻328(濱田005、9-10世紀写本)
  • 伍倫14号 大般若波羅蜜多経巻484(濱田048、8-9世紀写本)
  • 伍倫15号 大般若波羅蜜多経巻539(濱田050、8-9世紀写本)
  • 伍倫16号 金光明経巻4(濱田070、9-10世紀写本)
  • 伍倫17号 金光明最勝王経巻10(濱田072、8-9世紀写本)
  • 伍倫18号 釈摩男経(濱田079、8世紀写本)
  • 伍倫19号 天地八陽神呪経、背.仏経残片(擬)(濱田033、8世紀写本、ただし背は不明)
  • 伍倫20号 大智度論(異巻)巻19(濱田088、6世紀写本)
  • 伍倫21号 思益梵天所問経巻1(濱田098、9-10世紀写本)
  • 伍倫22号 1.思益梵天所問経(小字本)巻1、2.1.思益梵天所問経(小字本)巻2(濱田99、8-9世紀写本)
  • 伍倫23号 思益梵天所問経(聖本)巻3(濱田100、8-9世紀写本)
  • 伍倫24号 維摩詰経巻下(濱田105or16、8-9世紀写本)
  • 伍倫25号 観世音経(濱田107、7-8世紀写本)
  • 伍倫26号 大乗入楞伽経巻7(濱田109、8世紀写本)
  • 伍倫27号 1.黄仕強伝(擬)、2.普賢菩薩説証明経、3.証香火本因経第2(濱田112、9-10世紀写本)
  • 伍倫28号 勧善経(濱田113、9-10世紀写本)
  • 伍倫29号 維摩詰所説経巻1(濱田XXX、7-8世紀写本)
  • 伍倫30号 羯磨(濱田122、8世紀写本)
  • 伍倫31号 和善薩戒文(濱田124、9-10世紀写本)
  • 伍倫32号 五月五日下菜人名目録(擬)(濱田125、9-10世紀写本)
  • 伍倫33号 仏名経(十六巻本)巻1(濱田129、9-10世紀写本)
  • 伍倫34号 妙法蓮華経巻1(濱田144or67、8世紀写本)
  • 伍倫35号 大般涅槃経(思渓本)巻27(濱田X、6世紀写本、多田等観の跋あり)
  • 伍倫36号 瑜伽師地論議疏(擬)、背.残地契(擬)(濱田149、9世紀写本)

なお、岩井は国立国会図書館の購入が取りやめとなった後、濱田家の遺族は仲介した岩井の東洋文庫に購入を打診したものの、不調に終わったようだ。[氣賀澤2020]

<参考文献>

《補足》第104回国会 参議院 決算委員会 第3号 昭和61年1月23日敦煌文書の偽造問題が取り上げられた。契機となったのは、[藤枝1985]を元にした朝日新聞の昭和61年1月22日の記事「京都国立博物館所蔵の敦煌写本「大半が偽物」」。

○服部信吾君 次に、文部省にお伺いしたいんですけれども、時間がないので、文部大臣にはもっと非常に次元の高い観点でいろいろ御質問したかったんですけれども、ちょっと時間がありませんので、今問題になっております京都国立博物館、この中で敦煌ですか、これがにせものだとかいろいろ言われているわけでありますけれども、この点について大臣はどのようにお考えですか。
国務大臣海部俊樹君) 新聞報道で私も拝見したばかりでございまして、写本に押してある保存者の判がにせものであったのか本物であったのか、報道によりますとまだ確かな断定等がございませんけれども、私はやっぱりそういったことについては専門家の判定を待って判断をし、公表しなきゃならぬと、こう思います。
○服部信吾君 参考人の方、結構でございますから、ありがとうございました。
 まあこの京都国立博物館で出されている「学叢」、こういうものがあるわけですね。その中にいろいろと藤枝晃さんという京大の名誉教授です、大変権威のある方だそうでございますけれども、この問題についていろいろ述べられているわけですね。
 そこでちょっとお伺いしたいんですけれども、これがいわゆる守屋コレクションから京都国立博物館に寄贈を受けた時点で、一九六一年から六二年に調査をやったそうでありますけれども、この点についてはどのようになっておりますか。簡単にひとつお願いします。
○政府委員(加戸守行君) 昭和二十九年にこの守屋コレクションの寄贈を受けました中にも敦煌写本が七十二件ございまして、こういったものを含めました守屋コレクション全体につきまして、京都博物館の関係官で構成する鑑査会で一応調査いたしました。その後、昭和四十年の時点でこれらに基づきます図録を作製するための調査ということを行ったわけでございまして、当時その調査の一部分、つまり敦煌写本に関しまして藤枝先生に調査をお願いしたという経緯はございます。
○服部信吾君 要するに寄贈を受けるときにこれが本物かにせものかということを調査したわけですね。そのときの六一年、六二年の報告というのはどうなっていたのですか。
○政府委員(加戸守行君) 二段階でございまして、コレクションの寄贈を受けますときに調査をいたすわけでございまして、そしてこれは適正なものとしていわゆる寄附を受け入れたということでございます。
 それから、昭和四十年の時点におきましては、図録を作製するために、つまり守屋コレクションの敦煌写本等に関します文化財の形状、品質、時代、価値といったものを調査をするというようなものでございまして、その真偽を判定するというような性格のものではございませんでした。
○服部信吾君 藤枝さんがいろいろと書かれておりますね、読んでいると思いますけれども。「とくに六一-六二年の調査では私の判定結果に対して当博物館の関係者たちはたいへんな勢で不満を示した。当時の私の判定能力はまだ幼稚であったことを否定しない。こんどの再調査で若干点について前回の判定を改めた。前回の調査が不十分、つまり私の力が足りなかったのである。しかし、これは小修正であって、大筋は間違ってゐなかった。」いろいろこのあれに対しては、これは時間がありませんから読んでおられませんけれども、かなり判定に対して行政側に不満を持っている。行政側というか博物館側に大変不満を持っている。こういうことでありまして、この点についてはどうですか。
○政府委員(加戸守行君) 藤枝先生がいろいろ御調査なさいました際に、御自身でのいわゆる紙質の調査をなさったことがございますが、その結果につきましては十分な結論が得られるに至らなかったということがございまして、その後いわゆる所蔵印といったもの、つまりこれを当時コレクションいたしました清朝の李盛鐸の印というものをベースに比較研究をされたわけでございまして、それは個人として御研究なさったわけでございまして、そのこと自体につきまして博物館側で公式に申し上げたというようなことは承知いたしておりません。
○服部信吾君 一九六五年に今度は紙質の調査を行った、こういうふうになっておりますけれども、そのときに調査結果はとったんですか。
○政府委員(加戸守行君) 京都博物館として紙質の調査をお願いしたわけではございませんで、五十八年の時点ではいわゆる京都博物館に所蔵しております外国品の書籍関係の所蔵品図録をつくるというための調査をいたしておるわけでございまして、その中で敦煌写本に関しましては藤枝先生に御調査を願っている。その関連で藤枝先生御自身が各般の観点からの御調査をなさったものと理解いたしております。
○服部信吾君 その調査に対していろいろと何人かの先生方と調査をしたそうでありますけれども、「諸先生は私にその執筆を命じたまま、再び博物館で会合することはなかった。私は言はれた通り報告書を書くだけは書いたが、博物館に提出はしてゐない。」。何のために調査をさせたのか。こうなるのですけれども、この点についてはどうですか。
○政府委員(加戸守行君) 先ほども申し上げましたように、調査自体は図録を作成するために、つまり五十八年度から調査を開始しまして、六十四年に図録を発行することを前提としての調査をお願いしているわけでございまして、現在調査継続中の段階でございますが、藤枝先生の御調査はそれに関連はしておりますけれども、御自身の観点からの調査で、京都博物館が例えば印の真偽といったような形で調査をお願いしたわけではございませんで、それは藤枝先生の御自身の研究として調査をされている事柄だと理解いたしております。
○服部信吾君 いずれにしても委嘱は受けているわけですよね、この問題に対して。何の報告もしていない。何か何やっているのかなという気もするわけです。それで、今回再び再調査をしたということは、これは六一年、六二年にした調査がちゃんとしていなかった、そういうことで再調査をした、こういうことでいいんですか。
○政府委員(加戸守行君) 昭和四十年の時点で調査をお願いしましたものは、その守屋コレクションの内容を明らかにする、つまりその品質、形状あるいは時期、価値といったものについての御調査をお願いしたわけでございまして、その研究は一応終わっているわけでございます。昭和五十八年からの調査は、その守屋コレクションを含めた外国関係の書籍につきまして図録を昭和六十四年に作成をする、その六十四年の図録作成に向けての現在調査中の段階でございます。
○服部信吾君 時間がありませんのでこれで終わりますけれども、大臣、この問題少し大変な問題だと思いますよ。京都博物館には恐らく修学旅行の子供たちも行くでしょうし、いろいろな方が見に行っているでしょうし、そういう中に国が指定した重要文化財も二点入っておると、そういうことになって、これはどうもにせものじゃないか。こうなりますと大変文化行政自体に厳しいあれになってくると思いますから、大臣この点についてもう一度この問題についての取り組みをお伺いしまして私の質問を終わります。
国務大臣海部俊樹君) 御指摘のように国立博物館は修学旅行のみならず一般の国民の皆さんもここにおいでになっていろいろ心を安らぐ場所でありますし、いろいろと本物にやっぱり接してもらわなければならぬということはこれは当然のことだと思います。
 そこで、これは報道だけてありますが、きちっとしたところで専門家の御意見を聞いたり調査をして、その結果、もしこういうことが事実であるとするなれば、文化庁にも相談をしてそれなりの対応をしなければならぬと思いますが、これからも誤りのないようにできるだけ努力をしていくつもりでございます。

*1:Dはデジタルコレクションへのリンク。Mはマイクロフィルムでの閲覧

*2:Jは次世代デジタルライブラリーで全文検索が可能

*3:2022年3月19日に開催された京都国立博物館国際シンポジウム 「敦煌写本研究の現在」のパネルディスカッションにおいて、高田時雄氏が当時の著名な学者は藤枝晃氏であると明言するかたちでの同様のコメントを行っている。

「『チベット 聖地の路地裏―八年のラサ滞在記―』の世界」に参加

ずっと気になっていたことがる―ラサにディスコはあるのか?

2001年11月某日の夜
私はツレの日本人旅行者と2人して、ディスコを探して夜のラサを徘徊した。数少ない行き交うチベット人に「この辺にディスコはないのか?」と尋ねまくり、最後に連れて来られたのは、「民族舞踊ショー」のようなものが楽しめる高級そうなラウンジだった。
「これはディスコちゃうなぁ…」
そのときは、そう言って中に入らずにホテルに戻った。

2017年1月21日、風の旅行社が主催する「『チベット 聖地の路地裏―八年のラサ滞在記―』の世界」という講演会に参加した。講師は、『チベット 聖地の路地裏―八年のラサ滞在記―』の著者で、ラサに10年近く滞在した経験を持つ文化人類学者の村上大輔さん。ラサ滞在中のエッセイをまとめたこの本を読み土地の記憶が甦ってきたところで、今、彼の地はどうなっているのか気になったのだ*1

チベット 聖地の路地裏: 八年のラサ滞在記

チベット 聖地の路地裏: 八年のラサ滞在記

村上さんの話はとても興味深いものだった。
2000年前後から急速に進んだチベットの開発、2006年の青蔵鉄道の開通などを経て、ラサの都市空間は激変していた。多くの漢人流入し、商業ビルにマンションが格段に増えていた。また、内地で教育を受けたチベット人エリート層(西蔵班)が台頭してチベット人の中でも分断が起きているようだ(もっとも、ラサっ子はカムやアムドの人々のことを「彼らはチベット人ではない」と言っていたらしいが)。
もちろん、変わらないものもある。それが、大通りから少し外れた路地裏や都市から少し離れた郊外であり、そこに息づくチベット人の精神文化や生活である。

冒頭のディスコの話に戻ろう。
村上さんに積年の疑問をぶつけてみた。ラサにディスコはあるんですか、と。
「2001年の頃からありますよ」と村上さん。
チベット人は歌が大好きで、カラオケもよく歌うらしい。2000年代には、ダライラマやカルマパへの信仰を仮託した歌謡曲が流行したという。
「そのラウンジも面白いですよ。最初は民族舞踊ショーをやっていたりしますが、最後はカラオケ大会になってディスコみたいになります」
なんと、自分はラサのディスコまであと一歩と迫りながら、その存在に気づいていなかったのだ。正しく後の祭りである。
もっとも、現在のラサには本当の意味?でのディスコもあるようだ。職を求めて多くの漢人がラサにやってきたことに加え、ここ10年ほど、漢人の若者の間でバックパックを担いでチベットを旅行するのがブームになっているらしく(そう言えば、2007年にカムを旅したときもそういう旅行者にたくさん出会った)、そういった人々からの需要があるらしい。

また、村上さんはこうも話してくれた。
2008年以降、チベット旅行に対する、とりわけ外国人旅行者に対する規制が厳しくなった。今ではゴルムドなどから出ていた闇バスももうない。現地からのインビテーション・レターがないとラサに入れないから、ツアーで列車か飛行機でラサに入るしかない。
「だから、良い時代にラサに行かれたと思いますよ」
あまりの変化に絶句していた自分に、村上さんは最後にこう声をかけてくれたのだった。

おまけ。
セミナー会場で村上さんがSOASに提出した博士論文を下敷きにした著書”National imaginings and ethnic tourism in Lhasa, Tibet : postcolonial identities amongst contemporary Tibetans”をいただいた。フィールドワークの時期が2000年から2002年という、自分がラサを訪れた時間を含むということもあり、非常に興味深い。
参考)村上大輔「チベット自治区ラサにおける観光業の発展とその政治性に関する一考察」『観光研究』23(1), 2011年.

*1:この本で自分がもっとも興味深く読んだのは、(イベントでは言及されなかった)「茶館のアンスロポロジー」の章。「茶館に一日中入り浸る同胞を揶揄する、ある謂れがある。「資本金のない商人、車をもっていないドライバー、僧院から追われた坊主、客のいないツアーガイド、離婚したばかりの男女」云々。つまりは、社会的に属する場所がない、住む場所がない、食っていくあてがない、そういう人間が集まる場所だというのだ。」というくだりを読み、あの薄暗い空間が脳内に広がった