前田利定『支那遊記』

前田利定 『支那遊記』 東京, 民友社, 大正元(1912)年, 182p.

<本文>

子爵/貴族院議員・前田利定(1874-1944)は明治45年5月31日、神戸港から丹波丸(日本郵船の客船)に乗り込み、上海に向かった。
旅の理由は特に記されていないが、貴族院議員の視察旅行と思われる。前言で

只此の四十日が程陸の旅海の旅を重ねし間馬の上船の中にて目に触れ耳に聞きたるその日その日の出来事や頭脳に印象したる事共を書きつらねて此の行に加わらざりし先輩同僚の方々へ其興趣の幾分を頒たんが為なるのみ

と書いているのが、この一節こそが本書の性格をよく表すものだろう。

さて、上海港に到着したのは6月4日。同地で在留日本人たちと交歓し、同6日、鉄道で蘇州に移動した。
蘇州では寒山寺に参った他、日清汽船株式会社の白岩龍平と対面し、同じ佐々木信綱門下の艶子夫人と意気投合した。蘇州には宿泊せず、そのまま南京に進んだ。
南京で明の故宮等を訪れて古を偲ぶなどしてから、同8日、船で長江を遡った。船中で目にした夕景が印象に残ったようだ。少し長いが引用しよう。

長江のたそがれの景色ほど忘れられぬものは無之候 此度の支那の旅の中にて永遠に忘るるの期は御座なかるべく候 日は西山に落ち残照散り候へ共水光猶明に暮色來ること遅く御座候 やかで晩霞淡く流れ來りて遠山は烟につつまれ岸頭の水村緑莎の洲はぼんやりと柔き線を劃し居り申候 長江の積水は萬里雲際より流れ來りて下悠遠なる空の中へと流れ消え居り候 (中略) 暮色愈々加はりて川上より來る民船の燈影美しく水に落ちて静寂なる長江の夜色なんとも申されず候 夜涼水の如く午熱を洗ひ去りて軽袗船欄に倚り候へば月なけれども星鮮やかに江上の清風此の良夜を奈何せんやにて候

同12日、漢口で船を降り、鉄政局や日本人の経営する製粉会社等を視察した。翌13日には湖広総督・黎元洪から茶菓の招待を受けた。ちなみに、前田は黎元洪を「一介の武辧に無之 (中略) 溢るる許りの愛嬌を湛えて一種人を引き付くる力有之候 男に候 且つ軍人に似合しからぬほど温厚長者の風あるを見受け申候」と絶賛し、この地方の衆望を集めるのも無理ないとしている。
14日、漢口から鉄道に乗り込んだ。行き先は北京である。到着は27時間後の15日夕刻。その夜は、中華民国の議員団も交えての宴に参加した。
15日、大総統・袁世凱を表敬したが、足元も覚束ないその老いっぷりに戸惑ったようだ。翌17日からは民国政府の議会や天壇などの視察・見学に明け暮れた。
19日に八達嶺を経由して天津に、22日に営口に、24日に大連に移動した。
25日には旅順で日露戦争の戦跡を見学し、とりわけ旅順要塞については「陥落し候事が寧ろ頗る不可思議に存申候」と感想を述べている。
26日に旅順を発ち、長春を経由して28日にハルピンに到着した。そして翌日には、撫順炭山に見学に赴いている。ちなみに、この頃、少し里心がついたのか、「月満つる頃に帰へるちちぎりしを 吾が子や待たむ月の満つれば」という歌を詠んでいる。
その後、30日に奉天、6月1日に安東、そして2日に仁川と移動したところで、本書は終わっている。恐らくは、ここから船で帰国したのであろう。

本書を通読すると、やや冗長なきらいがないでもないが、修飾表現がよく工夫されている印象を受ける。議員の海外視察旅行記の中では異色とも言えるだろう。エッセイを数多くものしている著者の面目躍如たるところか。また、歌人らしく自作の短歌を折々に挟み込んでくる一方で、政治家らしく上海での一円銀貨の流通事情や蘇州の紡績業、南京の商況、長江上の汽船事業の角逐、民国政府の課題、南満州の経済状況などの調査分析にも字数を割いているのも特徴的である(議員視察なので当然と言えば当然だが)。