「『チベット 聖地の路地裏―八年のラサ滞在記―』の世界」に参加

ずっと気になっていたことがる―ラサにディスコはあるのか?

2001年11月某日の夜
私はツレの日本人旅行者と2人して、ディスコを探して夜のラサを徘徊した。数少ない行き交うチベット人に「この辺にディスコはないのか?」と尋ねまくり、最後に連れて来られたのは、「民族舞踊ショー」のようなものが楽しめる高級そうなラウンジだった。
「これはディスコちゃうなぁ…」
そのときは、そう言って中に入らずにホテルに戻った。

2017年1月21日、風の旅行社が主催する「『チベット 聖地の路地裏―八年のラサ滞在記―』の世界」という講演会に参加した。講師は、『チベット 聖地の路地裏―八年のラサ滞在記―』の著者で、ラサに10年近く滞在した経験を持つ文化人類学者の村上大輔さん。ラサ滞在中のエッセイをまとめたこの本を読み土地の記憶が甦ってきたところで、今、彼の地はどうなっているのか気になったのだ*1

チベット 聖地の路地裏: 八年のラサ滞在記

チベット 聖地の路地裏: 八年のラサ滞在記

村上さんの話はとても興味深いものだった。
2000年前後から急速に進んだチベットの開発、2006年の青蔵鉄道の開通などを経て、ラサの都市空間は激変していた。多くの漢人流入し、商業ビルにマンションが格段に増えていた。また、内地で教育を受けたチベット人エリート層(西蔵班)が台頭してチベット人の中でも分断が起きているようだ(もっとも、ラサっ子はカムやアムドの人々のことを「彼らはチベット人ではない」と言っていたらしいが)。
もちろん、変わらないものもある。それが、大通りから少し外れた路地裏や都市から少し離れた郊外であり、そこに息づくチベット人の精神文化や生活である。

冒頭のディスコの話に戻ろう。
村上さんに積年の疑問をぶつけてみた。ラサにディスコはあるんですか、と。
「2001年の頃からありますよ」と村上さん。
チベット人は歌が大好きで、カラオケもよく歌うらしい。2000年代には、ダライラマやカルマパへの信仰を仮託した歌謡曲が流行したという。
「そのラウンジも面白いですよ。最初は民族舞踊ショーをやっていたりしますが、最後はカラオケ大会になってディスコみたいになります」
なんと、自分はラサのディスコまであと一歩と迫りながら、その存在に気づいていなかったのだ。正しく後の祭りである。
もっとも、現在のラサには本当の意味?でのディスコもあるようだ。職を求めて多くの漢人がラサにやってきたことに加え、ここ10年ほど、漢人の若者の間でバックパックを担いでチベットを旅行するのがブームになっているらしく(そう言えば、2007年にカムを旅したときもそういう旅行者にたくさん出会った)、そういった人々からの需要があるらしい。

また、村上さんはこうも話してくれた。
2008年以降、チベット旅行に対する、とりわけ外国人旅行者に対する規制が厳しくなった。今ではゴルムドなどから出ていた闇バスももうない。現地からのインビテーション・レターがないとラサに入れないから、ツアーで列車か飛行機でラサに入るしかない。
「だから、良い時代にラサに行かれたと思いますよ」
あまりの変化に絶句していた自分に、村上さんは最後にこう声をかけてくれたのだった。

おまけ。
セミナー会場で村上さんがSOASに提出した博士論文を下敷きにした著書”National imaginings and ethnic tourism in Lhasa, Tibet : postcolonial identities amongst contemporary Tibetans”をいただいた。フィールドワークの時期が2000年から2002年という、自分がラサを訪れた時間を含むということもあり、非常に興味深い。
参考)村上大輔「チベット自治区ラサにおける観光業の発展とその政治性に関する一考察」『観光研究』23(1), 2011年.

*1:この本で自分がもっとも興味深く読んだのは、(イベントでは言及されなかった)「茶館のアンスロポロジー」の章。「茶館に一日中入り浸る同胞を揶揄する、ある謂れがある。「資本金のない商人、車をもっていないドライバー、僧院から追われた坊主、客のいないツアーガイド、離婚したばかりの男女」云々。つまりは、社会的に属する場所がない、住む場所がない、食っていくあてがない、そういう人間が集まる場所だというのだ。」というくだりを読み、あの薄暗い空間が脳内に広がった