中高サッカー部のこと

 私たちが附中に入学した1991年当時、中学サッカー部は前任の顧問の先生が転出されため休部中でした。入学してから数カ月経った12月頃、サッカーがどうしてもやりたかった同級生数人が、所属していた他の運動部や地元のクラブチームを辞めて集まり、同好会を立ち上げました。顧問は、担任のM先生にお願いしました。もっとも、最初はグランドの隅で他の運動部―主に卓球部でしたが―を相手にミニゲームをしたりしていました(今となっては笑い話ですが、負けたこともありました)。
 進級して2年生になった5月、その年に附中に転任してこられたA先生とO先生に顧問をお願いして、ようやく正式に中学サッカー部を復活させることができました。そして、新入生を勧誘して何とか11人以上の部員を集め、また体育倉庫の奥に積み上げられていた古めかしいユニフォームと体育用の短パンでというお世辞にも格好いいとは言えないユニフォームをそろえて、ようやく対外試合が組めるようになりました。しかし、サッカーを始めたばかりの部員がほとんどということもあり、最初は連戦連敗。ある練習試合では10点以上取られたこともありました。試合相手のチームからも舐められたり馬鹿にされたりしてとても悔しかったことも、一度や二度でなかったと思います。
みんな下手でしたが、ようやく思う存分できるようになったサッカーが楽しくて仕方なかったことをよく覚えています。雨の日にスライディングの練習とか、全く意味不明な練習も喜んでやっていたりもしました(「女子に告白するか散髪以外の理由では休むな」という裏ルールもありました)。サッカーに熱中しすぎたあまり、部員の成績が軒並み下がって担任の先生方から名指しで怒られてしまい、みんなでO先生のデスクのあった体育教官室でサッカーではなく英語や数学の補習をやる羽目になったのも、今となっては良い思い出?です。とは言え、練習の成果もあってか、8月頃からは練習試合だけでなく、公式戦でも1,2勝を挙げられるようになりました。けれども、中学校の間は「初戦突破は何とかできても…」というレベルを脱することはできませんでした。
中学校サッカー部と違って休部せずに活動していた高校サッカー部に上がってからは、他の部活をやっていた部員も加わってチームは様変わりしました。先輩方と初めて日々の練習ができるようになったことも大きかったと思います。
先輩方が引退されて新チームを結成した際、チームの目標を「打倒・奈良育英」としました。実際のところ、練習試合をしても奈良育英から1軍が来ることもなかったのですが、「どうせなら県内で一番強いチームにひと泡吹かせてやろう」ということで決めたものです。
なぜか美人バスガイドさんもブッキングされていた金沢合宿、優勝を目指して乗り込んだもののバスが遅れてアップもままならないまま初戦に臨んであっさり敗退した丹後遠征等で対外試合の経験も積みましたが、公式戦では相変わらず勝ったり負けたりの繰り返しでした。
しかし、高校最後のインターハイ予選(1996年)では、ベスト8まで勝ち上がることができました。しかも、ベスト4をかけた対戦相手は矢部次郎(現・奈良クラブ監督)率いる奈良育英。結局は0−5と大敗してしまって「打倒・奈良育英」は果たせずに悔しい思いもしましたが、同時に「同好会設立当初のことを思えばよくここまで来れたな」という感慨もありました。
卒業して何年か経った頃、「BEAR‘S」というOBチームを、学年の近いOBで組んでいた時期があります(幹事が一年後輩の「O熊」だったことに由来するチーム名)。その頃はわりと頻繁に附中高のグランドに行っていたのですが、その際にO先生が(先生はもう覚えておられないと思いますが)、
「お前らよりも上手い学年はいっぱいあったけど、お前らほどサッカーが好きな学年はなかったな」
とポツリと仰っていたのを聞いて、私たちの中高サッカー部の5年間は何ものにも代えがたいものだったなと改めて思い返していました。

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(2016.2.1追記)
このテクストは、『青春の球跡55 : 奈良女子大学附属中等教育学校サッカー部創部55周年記念誌』(柳蹴会、2015年)に寄航したものです。記念誌ではこのテクストを元にした年代記が掲載されています。