吉田正春『波斯之旅 回彊探検』

吉田正春『波斯之旅 回彊探検』東京, 博文館, 明治27.4, 191p+地図.

旅行者:吉田正春(1951-?)
渡航先:イラン(ペルシャ)など
渡航時期:明治13年(1880)-14年(1881)

<表紙>

余は平生旅行を好むの癖あり、何事も目新しき境遇に出逢ひては、陳腐なる脳底の想像も何時となく革新せられて、勇壮の気分を養ひ成すものなり

 この旅行記の書き出しは、僕が色々見てきた明治の旅行記の中では、一番格好いい。

 とは言え、吉田は好きこのんでイランまで赴いたわけではない。吉田は外務省御用掛勤務だったので、あくまでも「公務」である。 
 事の発端は、当時国交が無かったペルシャから、しかも皇帝ナスール・ウッディーン・シャーから直接に駐露公使・榎本武揚に、ペルシャへの使節団派遣要請があったことに遡る。吉田を団長とする使節団が結成された。この本は、吉田が外務省に提出した報告書を元に抜粋・加筆されたもので、帰国して13年後に出版されている。

<書き出し>

 それにしても、吉田は所詮はヒラの職員であり、一国の使節団長にしては不釣合いとしか言いようがない。おまけに、吉田には信任状すらも与えられていなかったようだ。どうやら、国交の樹立を目論むペルシャ側の思惑とは裏腹に、日本側にはそのつもりはなく、結果として下級官吏の吉田にも権限は与えられていなかったらしい。

 結局のところ、彼らの目的は商況調査以上のものではなかったようだ。実際、同行者も、陸軍大尉の古川宣誉の他は、四人の商人・実業家(陶磁器、や小間物、金銀細工を扱う)だった。これでは、彼らがかの地で厚遇されなかったのも無理はない。おまけに、劣悪な道路事情や治安の悪さ、そして慣れないキャラバンによる砂漠横断によって、一行の旅行は困難を極めた(それでも何とか国王との面会にまで漕ぎつけるわけだが)。

 こんな具合に、過酷な環境に加えて、(公務という観点からは)あまり報われないであろうことが最初から分かっていた旅にも関わらず、吉田が勇んで旅立っていったのは、吉田自身の内に抑えがたい旅への衝動があったからであないだろうか。彼の思いのたけが述べられた前言を読むと、彼が旅立った時と同じ年齢の僕にはそう思えてくる。


 ちなみに、古川の旅行記波斯紀行』(1891年、参謀本部発行)も出版されている。こちらは、軍人の報告書らしく、訪問先の場所の風俗・地勢などを事細かに記した内容になっていて、これはこれで貴重な資料なので、別の機会に紹介したいと思います。