とある村にて

 今回の旅でケンタロウから「どうしても訪れたい」と言われていたのが、写真家・一之瀬泰造の墓である。
 一之瀬泰造については今さら贅言を尽くすまでもないだろう。1972年からカンボジア内戦の取材を行い、多くの戦場写真を配信したが、1973年、当時クメール・ルージュ支配下にあったアンコール・ワットへの潜入を試みて失敗、そのまま帰らぬ人となった。享年27歳。
 折しもこの旅の2年前の1999年、浅野忠信主演でカンボジアでの一之瀬泰造を描いた『地雷を踏んだらサヨウナラ』が公開されており、我々三人も「予習」ということでそのビデオを見ていた。この映画のタイトルの由来となった、「旨く撮れたら、東京まで持って行きます。もし、うまく地雷を踏んだらサヨウナラ!」という言葉(彼が友人宛の手紙に残した)は有名だが、他にもこんな言葉を綴っている。

アンコールワットクメール・ルージュ、村人を撮ったら死んでもいいくらい、魅せられてしまったからです。 (73.11.2 大木先生宛私信)

僕の部屋から、アンコールワットの、中央回廊塔が彼方に見えます。毎朝、望遠レンズで眺めては、俺の血が騒ぎます。(73.11.16 朝日新聞外信部和田俊氏宛私信)

地雷を踏んだらサヨウナラ (講談社文庫)

地雷を踏んだらサヨウナラ (講談社文庫)

 一之瀬泰造はシェムリアプに住んでいた。我々がプノンバケンの丘から密林にひょっこり顔を出すアンコールワットを見たように、彼も望遠レンズで祠堂の先端を遠くから眺めていたという。それはたった数キロ先に存在するにも関わらず、その時の彼には近づくことができないものだった。
 繰り返すが、たった数キロ先である。現代の世界にあって外の人間を寄せ付けない「秘境」は、人為的に作られたものとしてしか存在しえないのだ。アンリ・ムオーが「再発見」してからその後は、「観光地」であったアンコール・ワットは「秘境」になった。そして、今は再び「観光地」となっていて、誰でも近づくことができる。
 さて、我々三人もアンコール遺跡巡りから少し道をそれて、「一之瀬泰造の墓」にやってきた。グラサンに「行け」と言ったら「あぁ、あそこね」とすぐに返したので、近ごろは訪れる人も多いのだろう。
 辺りは水牛がのどかに水田の中を歩き回るのんびりした農村だが、水田の脇の整地された一画にぽつんと真新しいコンクリートの墓があり、そこには稚拙な字で「一之瀬泰造の墓」と書かれている。どうやらできたばかりらしい。
 この村で一之瀬泰造の白骨化した遺体が発見されたのは1982年。その後、遺骨はご両親の手で日本に持ち帰られた(一部はアンコール・ワットに分骨されたらしい)と聞いているが、これは一体なんだろうか。この字の稚拙さはどうしたことだろうか。おまけに、墓守らしき村人が露骨にチップを要求してくるのは、これまたどういうことだろうか。
「これって、村で勝手に作って、俺らみたいな旅行者から小銭を巻き上げる新手の村おこし!?」
という言葉が咽喉まで出かかっていたのだが、若くして異国の土となったカメラマンに思いを馳せる二人を前にするとなかなか言えなかった。我々と同じようにここに来る日本人も含めて、一人一人がお布施代わりに置いていくお金は、たとえ1ドルずつであっても積み重なれば結構な現金収入になる。水田くらいしかない村にとっては、それはとても貴重なものになっていることは想像に難くない(後で知ったのだが、やはり「オフィシャル」な墓ではないようだ)。
 ツッコミは幾らでも入れられるが、考えようによってはこれは悪いことばかりではないのかもしれない。
 一之瀬泰造の遺した写真を眺めていると、死線のギリギリのラインで切り取った戦場写真と同じくらいに、戦火のカンボジアに暮らす人々の笑顔にレンズを向けたものが多いことに気づく。それは、彼がこの国とこの国に生きる人々をこよなく愛していたということを示すものだろう。であるならば、死して後に彼らに恩恵を残すがごときこの状況も、草葉の陰から笑って許しているのではないだろうか。
 ...ちょっと無理がある。