リタンのマニ石


 ダラムサラでは一つ、どうしてもやっておきたいことがあった。
 話は、2007年10月にカムを旅したときに遡る。成都からバスを乗り継いで辿り着いた理塘(リタン)。馬の代わりにバイクを乗り回したいかついカムパが闊歩する、大草原の中の小さな街だ。
 街の北側に聳えるリタン・ゴンパの前を歩いていると、門の前のボロ小屋で自分と同じくらいの歳の職人がにマニ石(経文や仏画を刻んだり描いた石)を刻んでいるのが目に入った。一心不乱にノミとカナヅチを打つ姿に、僕はしばらく見とれてしまった。その傍らには、仕掛かり中の石が無造作に積み上げられていた。
 ふと、親指大の黒石が足下に落ちているのに気付いた。彼の刻むマニ石の破片だろうか、何か文字が刻まれているようだった。僕は、思わずそいつを拾い上げ、着込んでいたダウンジャケットのポケットに入れた。何かの記念にでもなるかと思ったのかもしれない。

 その時は、その石を入れたことすらそのまま忘れてしまったが、帰国してから一月ほど経った頃、ダウンジャケットを再び引っ張り出したときに、ポケットの中にその存在に気付いた。その時にたまたま居合わせたのがリタンで一緒になったイタリア人で、彼からは「呪われるぞ」などとからかわれたりしたが、かと言ってそこから辺に捨てるわけにもいかず、それからもずっとポケットに入れたままになってしまった―。
 そしてその後、ラサでの騒ぎ、四川省西部での大地震と、チベットをめぐる状況は二転三転した。日本で仕事をしている僕は、それらのニュースを何となく気にしつつもだからと言ってどうすることもなく、ポケットの中の石をもてあそびながら、ただただ聞いていた。
 けれども、チベットを巡る旅の区切りの場所としてのダラムサラへの旅が頭を過ったとき、一つの思いが頭をもたげてきた―ダラムサラこそ、この石を返す場所なのではないか。ダライラマが居所とするその街には、今もチベット本土から多くの難民がやって来るという。場合によっては、その命がけの旅路が何年にも及ぶこともあるという。

 ダラムサラ滞在の最終日、朝から僕はいつものようにダライラマ公邸周りのコルラに出かけた。前を歩く老人についてマニ車をくるくる回し、俄か仏教徒になって真言を唱えた。そして、公邸のちょうど南側に積まれた小さなマニ石塚に、リタンで拾った石をそっと積み上げた。今日もリタン・ゴンパの前でノミを振るっているであろう彼の姿を思い浮かべながら。