ゴルムドにて(1)


 寝台バスのベッドから身を少し起こし、垢で薄汚れた毛布を少し押しのけて窓の外を見たが、何も見えない。本当にここはゴルムドなのだろうか?
 昨日の晩に敦煌を出てすぐ寝てしまったし、そもそも真っ暗闇の祁連山脈を縦断してきたので、外の景色は見ていない。しかし、運転手が「ゴルムドだ」と叫んでいるし、他の客も降りてしまったので、おそらく俺はゴルムドに着いているのだろう。
 それにしても、暗すぎる。おまけに、寒い。いかにボロバスとはいえ、せっかくの寝台バスのベッドを早々に捨てることはない。俺はもう一度目を閉じた。

 少し明るくなってからバスを降りた。
 人気のないバスターミナルを抜けると、無味乾燥な、灰色の街並みが続いていた。これがどうやらゴルムドらしい。こんな街に一日でも留まるのは御免だと思った。
「ラサに行くのか?」
 バスターミナルの入り口でウロウロしていた中年の回族の男が、俺の横にぴったりと寄せてきた。薄暗くて顔はよく見えないが、小柄だががっちりした体格だ。闇バスの客引き氏が、早速のご登場だ。
「1000元(15000円)でどうだ?」
周りには他に客引きらしき男の姿は見えない。そもそも、まだ俺は、このバスターミナルが、ゴルムドという街のどこに位置するのかも把握していない。ひとまず話だけでも聞こうか。
「それじゃあ、俺の店まで行こう。ここじゃまずい。」
客引き氏はそう言うと、右手をあげて暗がりの中からタクシーを呼んだ。
 5分も乗ったところで、タクシーを降ろされた。一見どうということもない回族レストランの前だった。そして、俺は客引き氏に導かれるまま店の中へ入った。

 中では、同じような白いムスリム帽を頭に戴いた数人の回族の男が、スチームストーブに手をかざして座っていた。そして、一斉に俺を見た。俺を値踏みしているのかもしれない。
「彼から聞いているだろうが、ラサまで1000元だ。」
この中で一番若そうな男が、単刀直入に切り出した。見るからに目端の利きそうな顔だ。
「待ってくれ。俺は西蔵に入るための許可証を持ってない。だから許可証が欲しい。」
俺も、たどたどしい中国語でとりあえず言ってみる。
「許可証を取るなんて馬鹿げてる!幾らするか知ってるか?4000元だぞ!?悪いことは言わない。俺たちのバスで行け!」
そんなことは、俺も分かっている。それでも、言葉を続ける。
「でも公安には捕まりたくない。」
 この国の田舎街では公安に暇つぶしでいびられたし、タシュクルガンからカシュガルに戻る途中の検問所では、解放軍の尋問の際にカメラを壊された。今度は何をされるか分かったものではない。
「大丈夫だ。俺たちは何度も旅行者を乗せている。問題ない」
ここを出て別の闇バスを求めて街を彷徨うのは得策ではなかったし、もうここで決めるつもりだったのだが、確認すべきことはしておかなければいけない。
「俺は西蔵からネパールへ行くつもりだ。出国のときに許可証はなくてもいいのか?そもそもラサに滞在するとき、例えばホテルなどで許可証を出さなくていいのか?」
 俺が気にしていたのは、ほぼこの一点に尽きていた。そして、その最大の懸案事項に対して、回族の若者は爽やかな笑顔を浮かべて即答した。
「不要(プーヤオ)!!」

 かくして、商談は成立した。そうしたら、途端に熱々の麺が出てきた。タダ(中国語では「免費」)だと確認してから、俺はがっついた。
 順調に事が運べば、俺は明日の夜にはラサに着いているはずだ。少しは値切れるかとは思ったが、船で会った学生が、やはり1000元位だと言っていた記憶もあるし、こんなものなのかもしれない。しかも、この麺といい、サービスも良さそうだ。
 何となく、ラサに一歩近づいた気がした。