東京高等師範学校『遼東修学旅行記』

『遼東修学旅行記』東京, 東京高等師範学校修学旅行団記録係, 明治40.7, 730p.
旅行者:東京師範学校関係者合計192名(職員21名、学生168名、雇い人3名) 
渡航先:中国  渡航時期:明治39年1906年)7月13日から8月11日

本文

 明治20年頃始まったとされる日本独自の教育システム「修学旅行」。現在は、外国に行く学校も珍しくないが、明治時代に既に海外への修学旅行を行っていた学校もある。
 日露戦争後、高等師範学校などを中心に、幾つかの学校が、日露戦争の戦跡視察を目的とした満洲・朝鮮への修学旅行を行った。例えば、当時の読売新聞(明治39年6月20日付)は、こういった旅行について、日本青年の「島国根性を一掃」し、「海国青年の気風を養」うべし、と気炎を上げている。
こういった旅行は、陸軍の斡旋によるとこも大きかったようで、そこには、感受性豊かな若者に、日露戦争の激戦の跡を見せ、広い大陸の空気を肌で感じさせ、今後の大陸進出を担う人材に、という思惑があったのだろう。もっとも、一般人向けのこいういったツアーも数多く催行されていたのではあるけれど。

 今回紹介するこの本は、東京高等師範学校の有志修学旅行の報告書。730ページという分量からして、昨今の修学旅行の報告書とは比べ物にならない代物である。
 それによると一行は、船で渡航した後は、列車で大連・遼陽・奉天と中心に移動し、戦跡だけでなく、現地の日本軍基地や工場や学校なども訪問している。いずれの場所も数日の滞在のみで移動しているため、非常に慌しい行程だったようだ。
 この報告書のメインは、国語漢文部英語部地理歴史部博物部数物化学部という5つの学習グループに分けられた学生たちの報告である。
 例えば、国語漢文部は単なる旅行随筆が多く、英語部は同じ随筆でも英語で書かれている。また、地理歴史部は、行く先々の地誌や風俗をまとめ、博物部は各地で採取した昆虫や植物の観察図である。ただ、数物化学部は(当然かもしれないが)精密な調査いまで至らなかったらしく、感想文に毛の生えた程度になっている。
 報告によっては、引率教官の講評もあったりするので、書いた学生や現地の様子などを想像しながら読んでみると、ちょっと面白いかもしれない。

 ちなみに、この一行の引率教官の一人は、那珂通世。一般的には無名かもしれないが、東洋史の分野では、有名人である。行きの船中、那珂による事前講義もあったらしい。なお、序文は、当時校長を務めていた嘉納治五郎の作。

ルート:
大連→旅順→奉天→鉄嶺→遼陽→営口→大連