北六一郎『満衣韓冠』

北六一郎 『満衣韓冠』 北蟹谷村, 北六一郎, 明治39(1906)年, 57p.

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日露戦争後、農商務省から嘱託を受けた各府県は、数十名単位で利源調査員を満州朝鮮半島へと派遣したのだが、富山県明治39年6月24日から8月10日にかけて60名の調査員を送りこんだ。本書はその一行に名を連ねた北六一郎の渡航日記である。
この日記によれば、この調査団は神戸より海路で仁川に入り、その後船・鉄道を駆使して仁川・ソウル・大連・旅順・奉天平壌と巡り、各地の役所や富山県人の世話になりながら、日程をこなしている。日記のところどころに車窓からの印象や現地の役人からヒアリングした各地の農産物や貿易の状況などが挟み込まれているけれども、どうにも体系的な調査が行われているようには見えない。また、一行は実業家や商人など様々な職業を持ち、各々調査テーマがあったようで、個別に調査を行ったりもしているのだが、北本人の調査テーマもよく分からない。
要は、「利源調査員」とは言うものの、どうにもその実態は、戦跡訪問旅行に毛の生えた程度の視察旅行だったとしか思えない。その意味では、日露戦争後に満州・韓国へと行われるようになった修学旅行団体旅行などと同根のものだと見てよいだろう。
実際、大連に到着した時には、真っ先に酒・タバコの安さや劇場・遊郭へのコメントを書いているし、また、奉天の領事館では対応した職員にまとまなヒアリング回答をしてもらえなかったのだが、その原因を、「玉石混交の調査団が数多く来るので辟易してしまっているのだろう」と北は推測している(一方で「中国の役人の悪影響を受けている」とも書いているが)。
そのことは北本人も十分自覚していたようで、最後は「実業経験のない自分が短時間に調査と言っても片腹痛い」と書いている。一方で「暑さにも負けず、南京虫にも食われず、馬賊にも殺されず、痩せることなく無事に故郷の山河を見ることができたのが幸せだ」とも書いている。