手島益雄『婦人の慰問使』

手島益雄 『婦人の慰問使』 東京, 愛国婦人会, 明治38(1905)年, 123p.

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かつて、奥村五百子(1845-1907)という猛女がいた。
若い頃は尊王攘夷運動に加わり、明治になってからは婦人運動に熱心に取り組んだ。また、朝鮮に学校を建てたり、日清戦争の際には皇軍慰問使に加わって清国に渡るなど、かなりエネルギッシュに活動していたようだ。そして、1901年、戦死者の遺族や戦傷者の救護などを行う愛国婦人会(会長:岩倉久子)を設立する。
日露戦争終了後の1905年7月7日、61歳の奥村は会員の野中禰知子・田代治子、記者の手島益雄を伴い、愛国婦人会の慰問使として大連の地に降り立った。日本軍の兵士に日本の婦人を代表として謝意と婦人会の活動を伝えて軍人の勇気を鼓舞し、また戦死者の墓に詣でる。これが、この慰問使の目的である。
一行は、旅順・遼陽・奉天とめぐり、その目的を果たしていく。本書は、その模様を記者の手島がまとめる形になっているのだが、日本人に大陸進出を促す筆致となっている。また、旅行日誌滞在期間中の将校・兵士の食事の献立も付録として盛り込まれているのも興味深い。
しかし、もっとも面白いのは、記述のところどころに出てくる奥村の天然とも言える行動かもしれない。
旅順でのこと。ここでは、湾内に沈められたロシア軍の軍艦に乗り込むことができる。その一つがバーヤン号というらしいのだが、奥村はそこに乗り込んだ時に、こんな歌をうたったらしい。

バーヤンが浮ひてバーヤが乗り込みぬ 千代萬代も榮え此船

なんだかんだ言って、戦勝にみんな浮かれていたのだ。