南条文雄『印度紀行』

南条文雄 『印度紀行』 京都, 佐野正道,明治20(1887)年, 59p.

<本文>

南条文雄(1849-1927)は、岐阜県生まれの仏教学者。国内で幅広い学問を収めたのち、1876年にオックスフォード大学のマックス・ミューラーのもとでヨーロッパにおける近代的な仏教研究の手法を学び、漢訳仏典の英訳、梵語仏典と漢訳仏典の対校等に従事した。帰国後は東京帝大の嘱託講師(梵語学)となった。
さて、南条は1895年にインドの仏蹟を巡る調査に出かける。本書はその際の紀行文である。総じて淡々とした書きぶりだが、その想いや感動は随所にちりばめられた漢詩に埋め込まれている(実際、後半は漢詩集になっている)。
2月10日、南条はスリランカ経由でマドラスに到着した。その後、カルカッタに移動して現地の学者を訪問したり図書館で文献調査をしたりして数日を過ごした。

次の目的地はダージリンダージリン鉄道に乗った南条は、このような漢詩を詠んでいる。

人工到此奪天工 幽谷深山鉄路通 因想世尊出家日 袈裟孤立別家僮


次いで、ブッダガヤ(ここで南条は、4年前に北畠道龍が建てた碑文を目にする)を経て、ヒンドゥーの聖地バナーラスへ。

南条は、死体が流れる河で沐浴するバナーラスおなじみの光景を目の当たりにして、

世尊在世ノ日モ此徒ノアリシモノナルヘシ。嗚呼人各其信スル所ヲ可トスト雖モ此法ノ如キハ毫端モ人生ニ益ナルノミナラス。

と拒否反応を示している。明治時代の仏教僧のインド紀行文は幾つか残されているが、概して「仏教発祥の地なのに今や外道が蔓延っている」という現実を前に、ヒンドゥーに対して否定的なスタンスを取るものが多い。学者でありつつも、真宗の僧侶という顔を持つ南条も、例外ではなかったようだ。
その後、南条は3月6日、ムンバイから日本への帰途へと就いた。1月ほどのインド滞在だった。