家永豊吉『西亜細亜旅行記』

家永豊吉『西亜細亜旅行記』 東京、民友社、明治33.12

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家永豊吉(1862-1936)は、アメリカのコロンビア大学等で教鞭をとった学者だが、若い頃、現在のイラン、トルコを旅したことはあまり知られていない。家永は、台湾総督府に出仕していた明治32年(1899年)5月17日から翌年3月1日にかけて、西アジアにおける阿片を調査するために、現在のイラン・トルコを踏破した。折りしも、台湾では阿片令(1897年にアヘン中毒者へのアヘン販売を許可、1898年に台湾におけるケシ栽培禁止、台湾総督府専売局によりアヘンを独占的に販売)が出されるなど、台湾総督府において阿片は重要な問題であったようだ。ちなみに、この旅から戻ってほどなくして、家永は総督府の職を辞し、アメリカへと渡っている。

さて、肝心の調査旅行について。台湾総督府に提出された報告書は伝わっていない。伝わっているのは、家永が台湾総督府就職に際して世話になった徳富蘇峰の主催する国民新聞社宛に旅先から送った書簡をまとめた『西亜細亜旅行記』のみである(従って、極秘事項だったと思われる阿片についての記述は見当たらない。なお、序文には後藤新平福島安正という日本の大陸進出において重要な役割を果たした人物が寄稿。 )。

家永は、海路ブシールに入り、その後、鉄道や騎馬などによってシラーズ、イスファハンテヘランイスタンブール、コニヤ、アレッポへ至るルートをとった。
金欠、役人や兵士の嫌がらせ、追いはぎ、寒さ、慣れない食事に水、粗末な宿、マラリアなどの病気など、道中は困難を極めたようだ。しかし、家永は、イラン、トルコという前近代のユーラシアにおいて隆盛を極めた両国が、今や新興の欧米諸国との競争に破れさりつつある現状について、旅での体験から「回々教徒の迷信実に大なればなり」と、それらはイスラム教との政教一致の国体のためと喝破するなど、ところどころで鋭い観察眼を披露している。
ところで、

波斯人は其の行動粗朴なるも弁舌は機転に富めり。これに反し土耳古人は口舌円滑ならざるも行動頗る迅速なり。

という彼のペルシャ人観・トルコ人観は、果たして的を得ているのだろうか?