白瀬矗『千島探検録』

白瀬矗『千島探検録』東京, 東京図書出版, 明治30.4, 246p.

旅行者:白瀬矗(1861-1945) 渡航先:千島列島
渡航時期:明治26年(1893)-28年(1895)

<本文>

 白瀬は、南極探検を行った(1910-1912年)ことで有名だが、今回は、彼が若いときに参加した壮絶な探検の記録を紹介したい。

 白瀬は、千島開拓を目的とした海軍大尉・郡司成忠を隊長とする千島探検隊に参加した。千島列島の開拓は、この地の未踏の資源や、対ロシア防衛などもあって、この当時声高に叫ばれていたものの一つである。白瀬は来るべき極地探検に向けての寒さ対策としてこの千島行きを希望したらしい。

 しかし、郡司は盛大な見送りを受けて出発した(しかし、海軍はロシアに気兼ねして、短艇=手漕ぎボートしか提供しなかった)が、どうも綿密な計画もなしに探検を敢行したらしく、まずは行く途中の航海で、19名もの隊員が死んでしまう(白瀬は陸上ルートを取っていた)。そして何とか、千島列島の中の一つ占守島で越冬したものの、他の島で越冬した隊員は全滅してしまい、結局、探検隊はあえなく撤収することとなった。
 ところが、である。探検隊を迎えにきたはずの郡司の父親が「今度は私が越冬する」と言い出したので、流石に老体を残すわけにいかず、代わりに白瀬の一隊(6名)だけが、更に1年滞在を延長する羽目になってしまったのだ。「運が悪い」としか言いようがない。そして、なお運の悪いことに、うち3名はなくなり、生き残った白瀬たちも、見かねた北海道庁長官が派遣したラッコ漁船によって何とか救出されることになってしまった。

 本書は、そんな不運な男・白瀬の記録である。
 白瀬は、千島諸島の気候・動植物・漁猟や、当地に現れる(日本人の)密漁船等、彼の地の地勢について詳細に記している。また、全日程の天候内務省から依頼されていたようだ)や、隊員の間で取り決めた規則、正月などのイベントごとに作成した祝詞なども収録されていて、これから判断するに、白瀬は相当几帳面な性格ではなかっただろうか。

 郡司の探検は、結果的に、隊員の半数以上が死亡する悲惨な探検だに終わったのだが、それでも当時は、福島安正のシベリア単騎横断と並ぶ壮挙と賞賛された(郡司と福島の肖像を全面に出した絵図が、当時はよく売れたという)。ちなみに、郡司は、この後も千島拓殖に執念を燃やし、明治29年から37年にかけて2度目の千島拓殖を行うことになる。

参考;郡司成忠の子孫が管理するサイトはこちら↓。
http://www.geocities.jp/gunjishigetada/index.htm