“錫蘭巡礼”(三)

そこは世界のなかで最高峰の山の一つで、われわれは九日行程も離れた海上からその山を遠望したほどである。われわれがその山を登って行くと、雲がわれわれよりずっと下に見えて、われわれと下界との眺望の間を遮っていた。(イブン・バットゥータ『大旅行記』)

「そうだな、もう少しだよ。1時間もすれば頂上さ。」
暗闇の中の黒い影が男の問いかけに答えた。
 そこに最後の休憩所がり、そしてそこからの階段は更に急に、狭くなっていた。ここから先は、階段の中央で鉄の手すりによって登る者と下る者の道が右と左に区切られている。エネルギーを内に蓄えながら一歩一歩踏みしめながら登る者と、エネルギーを発散させた後の軽やかな足取りで下る者とが、はっきり分けられているのだ。
 巡礼者たちは懐から白い糸を取り出し、階段の手すりに絡めてずっと持って上がっていく。手すりは、巡礼者たちが巻きつける白い糸でがんじがらめになっていた。
「ああやってここから頂上まで糸を巻きつけて持っていくのさ。」
 その由来を尋ねても、男はその黒い影から満足な答えを引き出すことはできなかった。

 昔日の人々は、人が登るための梯子のようなものを山の岩盤に刻み、また登山する人が署ルまるための何本もの鉄杭を穴に打ち込み、鎖梯子を架けた。それは十本の鎖で、そのうちの二本は山の一番麓のダルワーザのところにあり、その先に七本の鎖が続き、そして十本目が他ならぬ<信仰告白の鎖>である。そうした名称で呼ばれる理由は、人々がそこまで登って来て、山の麓の方を眺めると、眩暈がして、落ちてしまうのではないかと恐ろしくなり、思わず「私は神に証言致します。“アッラーのほかに神なく、ムハンマドアッラー使徒なり!”」と唱えるからである。(イブン・バットゥータ『大旅行記』)

 この島には一高山がそびえているが、非常に峻険な山だから以下に述べるような方法がなければ、誰もこれに登ることができない。その登攀手段とはこうである。この山には多数の鉄鎖がたらされており、その装置が非常に巧みにできているものだから、人々はこの鉄鎖を伝って始めて安全に頂上に登ることができるのである。(マルコ・ポーロ『東方見聞録』)

 今、巡礼者たちがたぐる白い糸は、かつて頂上からまるで蜘蛛の糸のように鉄鎖が巡礼者のために垂らされていたのとは無関係なのではないだろう。ただ、現在ではさらに形骸化してしまったらしく、100Mも登ったところで白い糸は途切れていたが。

 男は冷静に考えていた。
1時間?どうも信じられない。確かに距離的にはその通りなのかもしれないが、この混み具合だと、それは無理だな。そもそも日の出に間に合うかどうかも微妙になってきたぞ。
男が心配するのも当然だった。登るにつれて巡礼者たちの数が増え始めていた。当初はスムーズに流れていたので問題はなかったが、既にこの時点で少しずつしか進めなかったのだ。つまり、渋滞していたのだ。
まだ完全な渋滞ではなかったが、頂上に近づけばこんなものではないだろう。男にはその前年に登った富士山で、頂上を目の前にして完全に人の流れがストップし、何時間も待たされた苦い経験があったのだ。
 男の予想通り、それから30分も登らないうちに、巡礼者たちは流れから塊となり、その歩みを止めてしまった。巡礼者たちはそれでも騒がず、泰然としてその状況を受け入れているようだった。男はそれに倣って、はやる気持ちを胸に押し込んでじっとしていたが、頻繁に体を伸ばして前を覗き込んでいることから見れば、苛立っているのは明らかだった。
 ただ一つ、このどうしようもない状況から抜け出す方法はあった。時折しか人の通らない、下りの階段を使って一気に駆け上がれば、それで済むことなのだ。
 この道をとっていたのは、ちらほらと見える白人旅行者たちだった。彼らは自慢の体躯を生かして、しかし無表情に駆け上がっていった。
そのような表情になるのも当然だった。その最後の手段を選択した者は、褐色の巡礼者の中から出ることはなかったからだ。彼らは、座り込んだり歌ったりしながら、じっと待っていた。彼らの横を駆け上がってゆく人々を、或る者は無関心に、或る者は憤りの目で、或る者は諦観の目で眺めていた。
俺も巡礼に来た一人でしかない。時間は、国籍や金銭の多寡に関わらず、平等にかけなければいけない。男はそう思って、左わきの鉄柵を越えようとはしなかった。
男の気持ちを察してか、中には柵を跨ぐように勧める人もいた。男は己の欲求とは裏腹に、頑なに拒んでいた。俺は、あいつらとは違うのだ。
そのまま1時間ばかりの時間が過ぎた。男にはそれが、とても長く感じられた。
うっすらと夜が白み、やがて黒い影が仄かに人の顔を形作っていったとき、更にその影―スリー・パーダに登るのは2回目だというコロンボ出身の男で、年老いた母の手を引いて階段に座り込んでいた―が、「構わないよ。間に合わないぜ。」と言った。
男はついに柵を跨いだ。そして、右側には視線を送らず、ただ鉄面皮の面持ちで、一段飛ばしに階段を駆け上がっていった。そして、頂上まであと200Mかそこらというところで、再び塊の中に没していった。

頂上に近づくにしたがって、少しずつ視界に色が入ってきた。男の上には木々が垂れ下がり、更にその上には山頂の御堂が見える。眼下には、聖山に連なる山々の影がその姿を現しはじめている。光が自分の背中を照らしているのが分かる。上を歩く巡礼者たちの丸い背中と頭が次第に見えてくる。
まるでサマンを拝しているようだな。男は思った。
夜明けは近かった。